本

『よくわかる教理と信仰生活』

ホンとの本

『よくわかる教理と信仰生活』
G.I.ウィリアムソン
遠藤潔・黒川雄三・古川和男訳
PCJ出版
\3150
2012.10.

 教理というのは、とっつきにくい。理屈っぽいとも言える。だがまた、何かのときに基準として使える。法律のようなところもあるし、憲法のような働きもあるかもしれない。
 ただ、まとめられた教理というのは、聖書ではない。つまり、教理となると、クリスチャンの信仰の基準であると言えるのだが、考えてみれば信仰の基準は聖書であって聖書に限る。少なくとも、プロテスタント信仰はそうである。カトリックならばまた違い、様々な伝統をそれと同列に置くことができるから、教理というものが現実的な存在感をもつのだが、プロテスタントの場合は、聖書が一段抜けているから、聖書と同列に教理を置くわけにはゆかない。しかし、何らかの信仰の分かりやすいまとめというものがあることは、確かに便利である。そこで、この教理は丁寧に作成されるべきであるし、またそれが聖書のどこに根拠をもっているのか、それを明らかにしておく必要がある。
 しかし、教理と呼べるものにはいくらもある。聖書の解釈や理解について、プロテスタントは各自が祭司となりうることにも関係し、理解の内容が異なることがあるからだ。
 かといって、もちろん、信条として食い違うとまでいくと、異端などの別の呼び方による弾き出し方をするようになってしまう。ここが妙なところなのだが、一定の共通了解はあるわけなのだ。ただ、細かな理解については、解釈の異なる場合があるということである。とくにこれから起こるという終末の出来事については、いわば神のみぞ知る世界なのであるから、人間の意見は異なる場合が多い。また、聖餐の意義やその実態についても、意見の相違が多いのは確かである。
 そんな中で、この教理というのは、「ウェストミンスター小教理問答に学ぶ」というタイトルがこの本についているように、ウェストミンスター小教理問答は、17世紀にイギリスでまとめられた。これは多くの人々の共感を得た。そこで大切に扱われたわけだが、このときには、いちいち根拠を提示するようなことはなされていなかったようだ。そこで、後世、この解説は様々な書き手が試み、また現代にも引き継がれている。よいものについては、人々がさらに詳しく説明を施そう、というわけである。
 最近出たこの本は、現代風なイラストと生活に密着した実例に基づく解説が豊かで、分厚いが、読めば言わんとしていることがそのまま伝わってくる。図解が多数あるというわけではないが、効果的に挿入されており、理解を助ける。その意味で、読みやすく、とっつきやすいものではあるだろうと思う。
 ただ、改革長老などと呼ばれる英米圏の流れに属する著者の考えは、やや日本人の理解に合わないと思われるところもあるようで、あとがきに訳者がそのことについても触れている。従って日本における長老教会関係は、この本の内容をそのまま公式見解とはしていない、という部分があるのだそうだ。
 学習に使うにあたっては、そういうところがあるにしても、掲げてある教理問答は、嘘ではない。問答というから、今で言うQ&A形式となっており、考察点と解答とが明解になっており、論点が把握しやすいのであるが、これはこれで読んでいけばすべてひととおりにキリスト教の信仰というものがどういうものであるか、概観できる。
 とはいえ、果たしてその通りに自分が生きているだろうか、と思わされる場合もあるし、また、ほんとうに聖書はそのように言っているのだろうか、と言いたくなる場合もないわけではない。しかし自分の都合のよいように聖書を解釈してしまうことは、慎んだほうが無難である。もし教理問答自体に逆らうとすれば、かつてのルターのように、自分の読み解く方法が神により強力に支えられているという信仰により立ち上がるようなところまで覚悟をこめて、教理に立ち向かうくらいの気構えが要求されるのだろう。
 それでも、教理問答は聖書ではない。私たちは、聖書そのものから霊感を戴くことはやはり基本である。しかし、惑わしの霊もある。たいていの場合、私たちの理解が足りないか、自己中心に動いているということになるのだろう。だから、教理問答は、一種の定規のように、自分を測るものとして有効であると言えるだろう。それを理解するのに、できるだけ実例を伴った解説というものが役立つことも事実であろう。時代があまりに合わないと、理解の参考にもならないことがあるから、百年前の教理問答解説書があるとしても、歴史的なものとして見たほうがよいだろう。インターネットをどう理解するか、という点をその本に探すことはできないからである。
 それにしても、説明はうまい。タイトルにあるように「信仰生活」につなげるために、この本はよいヒントを沢山与えてくれる。人は神にのみ完全を期待することができるから、実在の神、そしてその神のことばとしての聖書にそれを期待すればよいだろう。だから、頭のよい兄弟に教わるというような意味で、こうした教理を理解する助けになる説明の本は、可能ならば数冊、手許に置いておくことが望ましい。また、目を通しておくことが望ましい。
 すると、自分のために役立つばかりか、自分の属する教会が何か間違った方に進もうとしているときにも、気づきやすくなる。これはありうることである。教会を考えるときにも、またその教会の牧師が道を外れて行くようなことがないためにも、見張りとしての役割を信徒の一人一人がもつことが望ましく、こうした学習は支えになるであろう。事実、牧師個人がおかしいというようなことは、ままあるのである。論理は様々なすりかえを伴い、気づけばもう取り返しのつかないような外れまで暴走してしまうというようなこともありうるのだ。人間的な感情により、牧師の思惑のままに教会全体が名がされ、踊らさせていくというようなことがないためにも、信徒が信仰の基盤をもつこと、しかも可能ならば理論的な部分を有しているということは、必要なことであるのだ。




Takapan
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