本

『古典力』

ホンとの本

『古典力』
齋藤孝
岩波新書1389
\840
2012.10.

 にほんごであそぼ。
 幼児たちが、日本の古典でも、明治の文豪の作品でも、暗誦して躍る。画期的な番組であったが一大ブームも呼び、また地道にそれは続いている。
 読書百遍意自ずから通ず、などとも言うが、声に出して読むという行為のほうを、意味の理解よりも重んじるというのは、実のところまずは語学の常識であるとされている。それを、日本語をすでに知るはずの人に向けて訴えるというのだから、当初勇気が必要だったことだろう。幸いにしてそれは受け容れられ、声を出して読む、朗読の重要性が認識され、広く認められることとなった。
 もちろん子どもの教育上もだが、大人にしても、声を出すのは実によい。この本では、そのことを表に出してきたわけではないが、バックボーンとして流れているのは確かである。古今東西の古典と呼ばれるものについて、声に出して読んでみては如何か、と迫る部分がある。
 流行の本が売れる。現代の作家にしても、その生活がある。また、読む私たちとしても、現代社会の生活が反映されているため、理解されやすい。おまけに流行りのムードで描かれているから、何かを苦労して読むということからは解放される。学生時代に背景知識なしに読むことの辛さを感じているからなお、気晴らしに読むものであれば、気楽に読めるほうが心地よいに決まっている。
 しかし、古典には、古典として生き残ってきただけの意義がある。いくらもあった書物のうち、後世に引き続き読み継がれてきた作品には、それなりの意味があり、重みがある。現代作家の本は、将来どれが残るのか、私たちの視点では分からないであろう。玉石混淆という具合である。
 古典とこの本で呼ぶものは、何百年単位のもの、という限定はされていない。つい先日のようなものであっても、残ってきたものについては古典と称している。そのあたり、我々も筆者に倣い、柔軟に構えておくべきだ。
 ともすれば、名作を羅列しただけになりやすいこうした企画を、筆者はまず、古典を読むための十カ条と題して、古典を味わう意味について十分読者を教育しておく。何も学校の国語の授業で読んだような読み方をしなくてもよいのだ。いや、むしろ私も同感だが、古典を読まなければ、損だ。こんなに面白いものを、敬遠して読まないだなんて、もったいない。人生を豊かにしたいという余力のある人は、古典の世界を見ていないというのは実に方法を間違っているとさえ思う。その辺り、実はこの筆者のほうが、私などよりよほど過激である。どのように過激であるかについては、実際にお読み戴いたほうが分かりやすいだろうと思う。
 そうして古典にまつわるいろいろな考え方を深めていき、読者はいつの間にか、もう古典を読まなければいてもたってもいられないほどになっていく、そうした罠が仕掛けられているような気がする。後半では、名著50を選ぶ。ここには、ほんとうに古典と呼べるものから、つい先般の思想書と言えるものまで、たぶん筆者の趣味によるものであろうが、様々なものが挙げられている。私は、読んでいないものとして、『嵐が丘』に関心をもった。なんだ、こんなに面白いものだったのか、と教えられた。昔家にそれはあったのだが、ついに読んでいないのは、この本が指摘しているように、なんだかそれが女性向きであるかのように錯覚していたからである。いやはや、いろいろな意見は聞いてみるものだ。
 さらにおまけに50が追加されていて、なんとも親切である。余計なお世話などと思わず、そのうち食指を動かすと思うものがあれば、できれば近い将来に、読んでみたらいい。早速読んでみたらいい。私も、理科系から文化系に方向転換したときに、『學燈』(懐かしいものだ)のお勧めに従って、百冊を読破した。これは後々までもためになった。今回のこの本では、ものすごい古典もあり、事実上なかなか『源氏物語』全巻とか、『失われた時を求めて』とか、よほどの決意と忍耐力が必要な本もあるのだが、全部といわずとも、少しずつ、守備範囲を広めていくのもよいかと思う。これはやはり大人向けのお勧めだとは思うが、大学生くらいならば、参加してもよいだろうと思う。また、可能ならば、高校生ないし中学生あたりでの、お勧めの読み方なども、著者に作成してもらえると、ありがたい。そうしたら、私は中学生たちに早速宣伝しようかと思う。




Takapan
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