本

『これからを生きる君たちへ』

ホンとの本

『これからを生きる君たちへ』
新潮ムック
\500
2011.4.

 薄い本だ。金額的にはもっと安く欲しいと思う方もいらっしゃるかもしれない。だが、損はさせない。これは買って読んで戴きたい。
 サブタイトルは「校長先生たちからの心揺さぶるメッセージ」とある。
 これでお気づきの方もいらっしゃることだろう。
 表紙の中央には、こう書かれている。「二〇一一年三月、ぼくたちはあの「特別な卒業式」を忘れない――。」と。
 そもそも卒業式が成立しただけでもすばらしい、その卒業式。岩手県のいくつかの小中学校の校長先生の言葉が文字になっている。長くかかって準備したであろう文章がすべて取り消しになったことだろう。東日本大震災は、卒業式寸前の子どもたちを襲った。
 宮城県の中学校からも一つある。
 そして、東大や阪大の総長の挨拶も。これは大学生相手の言葉であるから、一般の私たちも真正面から聞くことができるような内容でもある。教会で言えば牧師の説教を聞くような重厚さがある。語るほうもそのように語っているだろうし、聞くほうもまたそうである。基本的に一生に一度しか聞けない性質のものだ。
 阪大の鷲田清一氏のものだけは、私はネット上で拝見していた。震災のことに触れつつ、哲学者らしく思想的にも深みのある、優れた言葉であった。これは広く公開されていたことになる。だが、ほかにも公開を許可してくれるところはないか、と新潮社では模索し、訪ねまわった。語るほうもだが、編集側もまた、「やむにやまれぬ思いで」この仕事にあたったことが、「はじめに」の中で紹介されている。この言葉は、このたびの震災に相対する、被災者ではない私たちの思いを、よく言い当てていると思う。
 長崎大学の学長の言葉でこの本は終わる。そこにあるのは、被爆地としての視点である。地震の被災地のありさまは、一瞬にして消滅した被爆地の姿と重なる。また、原子力発電所はまさにその核による事故でもある。この学長はまた、長崎をも舞台とした大河ドラマ「龍馬伝」の中の、武田鉄矢扮する勝麟太郎の言葉で締めくくる。「君たちは、私の希望である」と。
 こうして、若者に向けてのメッセージがいくつも重ねられていく。胸が締め付けられそうにもなる。ここには、真実の言葉がある。いや、これまでにも毎年、無数の、真実の言葉があったのだ。だが、私たちは本当にそれらを真実の言葉として、受け止めてきただろうか。クリスチャンだったら、牧師のメッセージを、差し違えるほどの真剣さで受け止めてきただろうか、とでも言いたいところだが、それはともかく、社会全体が、また真面目くさった話をしてござった、という程度でスルーしてきたのではないだろうか、と問いたい。震災は、大切なことが何であるかを、まざまざと見せてくれたのではないだろうか。こうした真実の言葉は、そのあたりにきっといくらもあるのである。成人式の祝辞が茶番劇のようなものになり、またそれに合わせて形式だけの言葉となってきて、だからまたなおさら誰も聞かない話になっていく、というような降下スパイラルに、なってはいなかっただろうか。
 語るほうの真実さとして、やはりこの本は、冒頭の、立教新座中学・高等学校の校長の言葉を以て、核心としたい。これは学校のサイトにも公開されているから、この本によらずに読むこともできるのだが、ぜひ触れて戴きたい。最も熱いものが流れており、溢れているものである。「何者かに引きずり込まれるような思い」で書き直されたこのメッセージは、確かに聖書を下敷きにしているという点を別にしても、まさにある種の霊感により書かれたものであろうし、それだけの迫力がある。教育者として、人間として、真実を尽くす者の叫びが、ここにある。
 子どもたちに、これだけのことを伝えようと叫ぶことのできる立場にある人を、ある意味で羨む。そして、その賜物を神に感謝する。大人たちが、真摯に言葉を語ることが、こんなにも大切と見なされ、切迫した要求の中にあり、必要とされる時代は、なかなかあるものではない。これは、胸を圧迫するような激しい犠牲の重なりの故に、もたらされた。(「生き延びた」ではなく)「生き残った」私たちが、この言葉を真摯に伝える義務をもつのは当然である。「これからを生きる」というのは、たんに未来への船出を言うだけではない。この震災という特異点で隔てられた時代の中を生きる、という意味でなければならない。ここから、どう生きるのか。卒業する子どもたちは、この問いによってもまた、生かされているに違いないのである。




Takapan
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