本

『この杯が飲めますか?』

ホンとの本

『この杯が飲めますか?』
ヘンリ・J・M・ナウエン
広戸直江訳
聖公会出版
\1600+
2001.2.

 1996年に召されたが、神学を学んだ後知的ハンディを負った人との共同体の牧者として生活し、数多くの黙想などの著書を世に問い、カトリックもプロテスタントも境なく多くの人の支持を受けている著者の手による、体験を交えた形での、ひとつのテーマでの想いが綴られている。そのテーマは「杯」である。
 ひとつのことにこれだけ熱い霊を注ぎ思い続けていくというエネルギーは、カトリックには時々見られるが、深いものを覚える。イエスが、ゲッセマネで、できるならこの杯を退けてもらえるなら、と祈ったというその杯。しかし、そこだけにこだわらず、私たちの生活の中での杯の姿を交え、それでいて、杯の取扱いについての霊的な理解を深めていくので、読んでいてどれほど自分の目がこれまで見えていなかったものに開かれていくか、それを強く覚えるものであった。
 だから、これを「あらすじ」のようなものとして紹介しても意味がない。私たちはそれぞれの人生で様々な杯を飲むことになるであろう。時にそれは悲しみで満たされる。時に喜びに満たされたものでもあるだろう。しかし、その杯をただ「持ち上げる」だけのことに、どれほど深い黙想ができる余地があるものか、この本から学ぶこととなった。神の恵みの杯を覚える私たちはそこから受け、感謝し、それが救いであったということに気づくと、平安に包まれる。それは最後の一滴まで飲み干すこととなるし、キリストとつながる境地にまで至る。
 聖書の中の記事から想うことも多々ある。しかしまた、歴史上の人物の体験、また著者自身が家族の中で、あるいはその共同体の中で経験したことからも、この「杯」という概念でつながるものに幾度も戻っては、天を見上げる。イエスならどうであったか。イエスは何を語ってくださるのか。
 私たちの人生において、たとえ「杯」ではなくても、このように手元や足元をしっかりと見つめ、そこに立ち、なおかつ天を見上げて神とつながろうとする、それはどうしても必要なことである。上からでなければ、私たちは知恵を戴くことができないし、聖霊の助けを得ることはできない。
 頭だけで聖書を理解したり、神学をひけらかしたりするようなものは、おそらく信仰ではない。ナウエンのことばは、人の「心」に響く。人の「心」を突き、挑戦をくれる。それを変えようと及んでくる。ソフトに、神の愛をまといながら、包んでくる。そして私の狭い心が変えられていく。そうした体験を、この小さな読書から与えられるとすれば、すばらしいことである。文字の量は、さほど多くない。しかし著者も、言葉を噛みしめるようにゆっくりと綴りこれだけの文章を調えている。読む側もせっかちにならず、行間や、時に天を仰ぎながら、言葉を味わう必要があるだろう。これは、それに見合うだけの本である。そして、そもそもこの著書の本が愛される訳も分かるというものである。




Takapan
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