本

『ドイツ告白教会の説教』

ホンとの本

『ドイツ告白教会の説教』
加藤常昭編
教文館
\4830
2013.11.

 4000円を超える価格の本は、私にはきつい。だが、内容に魅力があり、読ませようとする意志すら覚えるようなシリーズである。世界の説教というシリーズは、もう何冊か購入した。いわば歴史的な礼拝説教を文字にしたものを集めているものである。こういう出版は、欧米では多い。原稿がなくても、礼拝出席者のメモや書取が有効な場合もある。いや、とにかくたちどころに説教原稿が世間を駆け巡ったという、スポルジョンのようなケースは稀であるかもしれないが、それにしても、説教を重んじるヨーロッパの文化に敬服する。
 ここでは、ドイツ告白教会が中心にある。ヒトラーのナチス・ドイツが席巻する時代の空気の中で、迫害を受けつつもイエスを見上げ聖書に従おうとする精神を誓ったグループの牧師たちの説教である。
 時代は切迫している。日本ても、憲兵が礼拝を見張っていたという時代の証言を思い起こすとよい。ドイツの場合、ユダヤ人というレッテル一つで、人は「モノ」として扱われた。拷問などという時間と労力のかかることはしなかった。ただ殺した。何がきっかけで、その殺されるモノに成り下がってしまうのかも、よく分からないような時代だ。言論の封殺さえあっただろうその次代に語られていた礼拝説教の、なんと信じなことか。もしも、といった生ぬるい想像ではない。いったい、そこで語られた説教とは何か。政治的アジテーションか。いや、違う。
 価値あることには、ここにある説教は、従来邦訳されたことがないものばかりであろうということ。いや、その牧師の名前すら、日本では殆ど知られていない、という場合が多々あるだろうと思われる。関心が示されていなかった分野の出版には、大きな意義があると言えるであろう。
 いつの説教か、背景はどのようであったか、そのあたりの事情は、編者が適切に解説を入れている。編者自ら関わりのあった方、またその関係者などもいて、現実味がある。すなわち、編者自信が、その説教の背景について、何らかの経験をもっている、ということだ。これは大きい。説教の中のひとつひとつの言葉が、表面上はさておき、実のところ何を念頭に置いているか、感じることができるからである。
 いや、それは、現在こうして読ませてもらう私にも、伝わってくるような気がする。当時のドイツの権力の恐ろしさというものは、私たちの想像以上のものであろうが、それでも精一杯想像すると、これだけの言論を呈することの危険性は、甚だ恐ろしいと思わざるをえない。しかしまた、まだこれだけのことが言える教会という場の力をもまたひしひしと感じる。
 実際、政治的発言はしていない。あるのはただ、聖書からの説教である。たしかに、説き明かし的な講解説教を見ることは殆どなく、主題があると言えようが、それでも、聖書の言葉の表面的な意味の背後に、どんな神の愛と意図が隠されているか、そこにきちんと目を留めているのは分かる。すなわち、たしかにこれらは、礼拝説教なのである。その点の品位と信仰は、強く表に出ていると言える。だからこそ、これは説教集なのである。
 福音の宣教としての説教です、とただ言われて読めば、そうだと思いつつ読むこともできるであろう、ということだ。だが置かれた状況を私たちが知ると、言葉の端々に、実は隠れた意図があることも分かる。そういう説教である。
 私はすぐさま直感した。その直感は、間違ってはいなかった。巻末の編者の挨拶の中に、それを強く感じた。つまり、今の日本の空気が、この説教らの時代と混じってくるのである。私たちは、本物と偽物とを見極めなければならない。まさに私たちは、今「告白」をすべきであると誘われている。この意識がなければ、せっかくのこの本を読んでも、「ありがたいお話でした」だけで終わってしまうのである。
 編者も、あまりに露骨にそのことは示さない。だが、鈍い私でも分かったのだ。黙示録に謎を出すぞと書かれた事柄のように、これらの説教の中にね隠されたメッセージがある。しかも、聖書の言葉というからには、本来そのような切羽詰まったものが溢れていたはずである。何を今更私たちは思い出そうというのか。それほどに安穏としたこの時代のボケた生ぬる魂のままで、私たちはのほほんと、見えるものしか見ようとしていなかったのだろうか。
 見えないものを見る訓練は、そんなに難しい課題ではない。この告白教会の時代の説教には、神の愛と、今私達への道標とが、効果的に形作られている。心に響かないはずはない。また、心に残さなければならない。そんな説教集である。




Takapan
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