本

『心が叫びたがってるんだ。』

ホンとの本

『心が叫びたがってるんだ。』
豊田美加
小学館
\680+
2015.9.

 映画の原作ではなく、映画のノベライズである。映画のほうがオリジナルであるが、それをわざわざ小説仕立てにしてある。こうして興味をもって若い人たちが活字に親しんだらいいんじゃないか、という教育的配慮からではないだろう。それだけ売れればいい、という商売心からも作られているのだろうが、私のような者が読むからには、それなりの理由がある。
 このように、原作がほかにない映画の場合、映画をどう受け止めるか、あるいはあのシーンはどういう意味だったのか、という辺りに、ひっかかりが残る場合がある。そもそも映像芸術しての映画の場合、受け取る観客の側で自由に解釈してよいのだろうし、百人いたら百通りの受け止め方があってもよいはずである。それでもなお、制作側が何の意図であのシーンを描いていたのか、あのときのキャラクターの心理は実はどうだったのか、気になることがあるというものである。
 ノベライズに、それが描かれているのではないか、と思ったのである。
 これは、案の定、というところだった。もちろん、私なりに思ったことはある。しかし、描く側はこのときの心理をこのように考えていたのだ、ということを知り、ある部分では納得もしたのだった。
 映画は、受け手が自由に解釈してよいと言った。それはそうなのだが、アニメとなると、少し違うのではないかと私は思う。アニメは、完全に、制作の意図通りにしか作らない。実写だと役者自身の人格があり、演技への考えもあり、監督やプロデューサの意図とは違うものが演技に現れてくることがある。また、あっていい。役者はロボットではないのだ。それぞれが人格をもち、それぞれが何らかの映画観なり世界観なりをもっている。それらがぶつかり合い、また尊重し合い、別々の思いが交叉しながら、ひとつの結果としての映像が生まれるが、そこにはハーモニーに似た偶然の響きが伴うのではないかと思うのだ。しかし、アニメは、監督がこだわればこだわるほどに、ひとつひとつが計算され、意図の表現のために作られていく。だったら、何を意図してあのように描いたのか、知りたいと思うことはさほど意外なことではないのではないか。
 さて、内容については、ここまで触れていない。言葉を放つことで人を傷つけることを体験した少女が、卵の呪いを受け、言いたいことが言えなくなる。完全に喋ることができないのではないが、殆ど苦手である。それが、地域との触れあいを目的としたステージで主役を演じることになる。それというのも、自分のその体験をミュージカルに仕立てることになったからである。そのきっかけは、男の子との出会いであった。自分を理解してくれると思ったその高校生の少女は、男の子に淡い気持ちを抱きつつ、自分の中にあるものを表に出していく。映画では、この女の子が主人公のように描かれているように見えるが、元々この映画では、男の子のほうが主人公として企画がスタートしたのだという。それが途中から、変更されたらしいのだ。そのためか、この小説のほうでは、どうやら男の子のほうにウェイトがかかり、どちらが主人公とは決めにくいものの、やはり男の子のサイドから描かれているように見受けられる。このあたりも、制作側の変動とともに、映画のもつ視点というものが感じられて面白い。
 それにしても、映画では、音楽が見事だった。最後の大団円に至るところでの曲のリンクは、はっとさせられた。まさかこの2曲が重なろうとは、と。さわやかに風を残し、そしてベタな結論で終わらず、続きすら予感させるようなエンディングで、スタッフの前作「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」より、分かりやすく、より広い世代の心をくすぐる佳作となったと思う。小説も、ほぼ映画に忠実で、読みやすい。映画を見た方、明かさないキャラクターたちの心の中を覗くには、これはいい素材だと言える。逆に、それは知りたくない、という態度もありだとは思うのだが。




Takapan
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