本

『ここからどこかへ』

ホンとの本

『ここからどこかへ』
谷川俊太郎文
和田誠絵
角川学芸出版
\1680
2010.7.

 言葉の仙人のような谷川俊太郎に、シンプルラインの魔術師のような和田誠がタッグを組めば、魅力のない本ができるはずがない。
 これは、子ども向けの、おはなしである。いや、子どもに媚びるような仕方が見られないから、十分おとな向けであるかもしれない。年齢も国籍も不明なような、不思議な設定であろうか。
 そもそも、おばけがこわいから、おばけに会わなければならない、と思い込むところから、怪しい。そしておばけに会うとき、こわさのあまり声がかすれていたほどであるにも拘わらず、いざおばけと出会うと、ごく自然な会話をかわしている。大人だったら、そこに奇妙さを感じるのだが、子どもはたぶんそれで自然なのだろう。わくわくと、新しい出会いにときめくのが子どもの特権だ。生きるということは、出会うということでもあるのだから、ここではおばけと出会っている。
 両親が南極に行ってしまって子どもたちだけで生活しているとか、最後の場面だが、子どもたちに会いたくなって急に休みをとって南極から二人とも帰ってくるとか、荒唐無稽な設定がまた楽しい。これも、子どもの理解のレベルに合っている。やたら大人の事情などを説明するほうが間違っているのだ。子どもには、子どもに通じる事情が説明されればよい。だからこそ、何のひっかかりももたずに、子どもは本の頁をめくっていくのである。
 出会うおばけが次々と、何かのメッセージを残しているかのように、大人は思う。子どもはたぶん関係ない。日常、意味の分からないものと次々に出会っていることと、別段変わりがないことなのだ。考えようによっては、哲学的で人生を深く考えてみたいというテーマや言葉にも、大人は出くわすのであるが、子どもにはそんなことはどうでもいい。ただ、もしかすると大人には大人なりにそこで立ち止まって少しばかり何かに思いを巡らせてほしいというような、作者のほのかな願いがこめられているかもしれない。でも、多分に、哲学思想を悩めといっているのではないだろう。きっと、その言葉が言葉としてぐっと重みのあるもの、この空気の中のほんの少し密度が大きな塊のようなものとして、ぶつかったことに読者が気づくことだけでも、作者にとっては満足なことなのではあるまいか。というのは、出会うおばけとの会話の中で、幾度も、ある言葉にカギカッコが付き、あるいは何か特別な意味をもっているかのようにリフレインされながら、会話の中でそれにこだわる場面が描いてあるからだ。そしてそれは、安易には解決されていない。ただ通り過ぎているだけである。
 キャラクターとしての主人公「ぺったくん」は、谷川氏にとり半世紀前からのつきあいのあるものらしい。きっと、そうした歴史的な重みも、作者の中からは香り出てくるのであろうが、読者としては、この作品だけでも、その魅力は十分伝わってくる。
 中程で、「読んでもらえなかった文字たちがおばけになってるんだ」とある。ぺったくんは、図書館から借りた本を読んでいないことに気づく。さらに文字化けじいさんというこのおばけは、「パソコンで書けるのは字のカラダだけ。字のココロは手で書かねばならららーん」と言う。言葉がいかに空虚なものになっているのか、それが読まれもしないで死んでおばけになってしまっているのか、言葉の仙人のような谷川氏の声と重なって聞こえてきたのは、私だけではないだろうと思う。
 最後に登場する、「かみさまおばけ」は、クリスチャンたる私にとってはあまり好ましくないキャラクターであるが、日曜日の夜しか出てこないこのおばけ、かつては神であったがだれもわたしを信じなくなってからはおばけになるしかなかった、だがおばけになってもあらゆるいのちを愛することをやめないだろう、と口にする言葉には、聞き入ってしまう。やがてこの話は、「いのち」が続くという考えにつながっていく。神をおばけにしてしまった現代人には、忘れているものが決定的にあるだろう。言葉の中に、いのちの中に、私たちは耳を澄まして、それを教えてもらい、取り戻さなければならないのではないか、と改めて考えさせられる。
 だからやっぱり、こうした子どものためのような本は、大人が読む必要があるはずなのだ。




Takapan
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