本

『国家と宗教』

ホンとの本

『国家と宗教』
南原繁
岩波文庫
\1080+
2014.9.

 大きな「ヨーロッパ精神史の研究」という副題がある。1942年に大部分がまとまった形で出版され、この論文集と関連した形で、「カトリシズムとプロテスタンティズム」という翌年発表された論文が加えられてひとつの文庫となった。厚みのある一冊であり、内容も深い。
 プラトン復興に始まり、オーガスチン(アウグスティヌス)の「神の国」との比較を経て、カントの歴史哲学を論ずる。この後の近代が現代につながるという形で捉えるが、なんといってもナチス精神について論じているところが重い。
 これは戦後の出版物ではない。1942年である。ナチスの時代である。日本の戦時下である。平和な世で平和が大切だと叫ぶのは、ある意味で容易である。だが、軍事色に染まった時代にそれを称え、批判を加えるようなことが、よくぞできたものだと驚く。
 解説によると、南原氏自身がひどく目立った存在でなく、政府に目を付けられていたというほどではなかったことや、そもそもこの学術性の高い論文を、軍関係者が読みこなすことができなかったのではないか、というような説明を加えている。だとしても、どうかすると細かくしつこい調査と警戒を重ねていた軍部である。思想犯を挙げることが専門の部署もあったはずである。そこからよく逃れたものだと思う。
 しかも、この出版は、紙の統制もあったはずの時代に、初版五千部が瞬く間に売り切れたという。「狂気の時代に正気を、熱狂に対して知性を示す作品」と解説者は記している。学徒動員された知性ある若者が戦場に携行してむさぼるように読みふけったという事例もあるという。闇の時代に輝く宝石のような存在として、光を投げかけたと言えるのではないだろうか。
 南原繁氏は、クリスチャンである。信仰をもっていても、論じる上ではそれを意識させない論文を記すことが多い昨今において、この書では、押しつけなどはしないものの、信仰ある姿勢において論じてある点が顕著である。日本人の中には抵抗がある人もいるかもしれない。しかし、逆に言えば、聖書や信仰ということを理解していなければ、西洋を論ずることはできないと言ってもよいはずである。聖書を知らずして、西洋文明や西洋精神がどうの、などと口にするほうがおかしい。それは軍部なり一部の思想家がやっていたことであるが、考えてみれば奇妙極まりないことである。そこへいくと、ナチスの抱える問題点を鋭く指摘するということは、こうした理解をもつ著者でなければなかなかできなかったとも言えるのではないだろうか。たんにドイツが勝っているからそれと手を組むというような利害関係や情勢観察により国の運命を決めるよりは、相手の精神風土を理解しそれが歴史的にはらむ問題点を見通す眼差しのほうが、よほど的確であり重要かということである。
 宗教とは何か、という視野も入れて著者は論ずる。これはおいそれとできるものではない。また、だからこそこれは知性を重んじる人々により、当時迎え入れられたのではあるまいか。超越的理念から現実を捉える批判的観点は、カント以来の近代思想が注意して考え続けてきた視点であるが、そのときにも、自分の言うことは常に正しいというふうに見るのではなく、可能な限り客観的に、いやこれは主観・客観の対立レベルではなく、超越的・批判的立場から分析しようという気持ち、さらにそれを理念という、分析によっては根拠付けられないにしても、人類が理想を考える際に必要な概念に向けて歩もうとする意志を、軽視してはならないはずなのである。
 幾度も言うが、これを戦時中に発表することについて、敬服せざるをえないと思う。南原氏に全面的に賛成する必要はないが、ここから学ぶことは、今の私たちの時代にも、国を考え知性的に将来を考えたい人々にとり、たいへん重要な意味があると考えられる。
 なお、この文庫が出版さて間もなく、この本を垣間見て「使える」と思ったのであろう、宗教団体が、自分に都合のよいところだけを取り上げて、この本の権威を味方につけようと目論んだ意見を本にして売っている。霊のせいにすれば何でも騙ってよいというのはもはや宗教でもなんでもない。それが権威や権力を欲しがっている点にひとつの危機が存する。さらに、そのような思いつきを教える大学を作ろうと欲し、認可が下りないと激しく非難の連呼をしている。キリスト教の大学があるではないか、などとも言っているが、お門違いである。こういう精神をこそ、南原氏は却下しているはずなのであるが、それが見えない者が、見ていない人々を導こうとしている点を、大いに警戒しなければならない。




Takapan
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