本

『子どもと教会』

ホンとの本

『子どもと教会』
関西学院大学神学部編
キリスト新聞社
\1600+
2011.1.

 先に、『若者とキリスト教』を読み、シリーズの中に子どもが扱われていることを知り、こちらも注文した。時間的には逆の順で読んだことになる。関西学院大学神学部でのセミナーが、広くほかの人々にもその議論の中に加わってほしい、知ってほしいという意味で公開しているシリーズである。
 こうした試みは本当にありがたい。そこで話し合われたこと、提案されたことが、ごく内部の人々の間で「よかったですね」「そうですね」で終わってしまうことは、実にもったいないからだ。情報や知識を共有できるということが、現代社会の強みである。実は自分だけが考えていることではない、あるいは、ほかの人はこんなことも考えている、そういうことを体験できる好機である。そこからまた、知識の積み重ねや発展もありうることだろう。元来ゆっくりとしたペースでしか積み重ねできなかった過去と違い、瞬時にして知的遺産を獲得でき、そこから新たなスタートができるという時代なのである。
 今回は、「子ども」という名で呼ぶ。「若者」も子どもではないか、という捉え方もあろうかと思うが、ここでは「教会学校」「日曜学校」と呼ばれるところにおける教会のあり方、考え方というものが問われている。いや、ここには複数の提案や議論がなされているから、「子ども」というものをどう見るか、というさらに大きな視点も養われている。
 こうなると、各自の経験から、子どもはこうだったとか、こうではないかとか、今こうだとかいうような話ばかり出てくるかと思ったら、これがまた全然違う。まず、田村直臣という牧師について詳しく教えてもらえる。ここで、子どもそのものというよりも、子どもについてある見方を徹底した先人の生涯をたどるという営みに、かなり長い間縛られることになるのだが、これがまた実に興味深い。その人柄から紹介され、さらに当時として画期的な視点をもっていた実情が明らかにされると、その世界最先端とも言えるような考え方に、驚きを隠せない。
 次は、「こどもさんびか」の変遷である。これは発表のときに実際に歌いながら続けられたように見受けられるが、実に楽しい。いくつもの版があり、それぞれの特徴と時代的な変化が見事に現れてくるのである。大人たちが、どのように苦闘しているか、そしてまた子どもたちに対してどういう態度で臨んできたのかという歴史を教えてもらえる。やはり面白いのは、子どものことを思いやっているようにも見える現代的な考え方、つまり、本当にこれで良いのか、可能性をもっと考えてみよう、みたいな優しいような接し方だと、実は子どもにとり、分かりにくいという告白である。実際に子どもにそのあたりを問うても得られているし、それは全体としての変化をたどった調査者の気づきと一致していた。然りは然り、否は否、と名言するのは、ともすれば威圧的になり権威的ではあるのだが、そのほうが言っていること、どう受け止めればよいかということが、子どもの視点からも分かりやすいというのである。
 もし、教会学校を具体的にどう運営していけばよいか、のような知識をこのブックレットに期待していたとしたら裏切られる。もっと根底的な、原理的な事柄が顧みられたのである。
 そして、子どもを単に将来の継承者だとしてしか捉えられなかったとしたら、それは根柢から間違っているのではないか、という指摘が重い。それはまるで、カントが、人格を手段として扱うことを断固として拒否したように、子どもを道具のように捉えることが退けられるようにも見えた。子どもはそれ自身、価値あるものなのである。
 ノウハウを期待すると失望するかもしれない。だが、教会や地域など、置かれた情況により、するべき現象面はまるで違ってくる可能性がある。しかし、愛という原理においては、少なくとも同じ聖書を信仰する者としては、別の場所にいることはできない。その同じ根につながっている者どうしとして、「子ども」と「自分」という向き合った状態において、自分が何を見、何をするかということを、それぞれが考えていくべきなのである。そのことに、改めて気づかせてくれる。
 そういう意味で、小さなこの本は、人を変える力をもっている。いや、変えるのでなければならない。今ここで私は、教会において、あるいは家庭において、子どもとどう対峙しているのだろうか。どう関わっていこうとするのだろうか。また、子どもから何を学べばよいのだろうか。大切なのは、そういう点であるはずだ。
 いやあ、楽しめた。




Takapan
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