本

『神の言葉の神学の説教学』

ホンとの本

『神の言葉の神学の説教学』
K.バルト・E.トゥルナイゼン
加藤常昭訳
日本基督教団出版局
\2000+
1988.2.

 幾人もの著者が、この本を引用したり紹介したりしていた。それで読みたくなった。新版が出ていたが、旧版のほうが比較的安価で手に入ることが分かった。それでも元の価格より少し低いだけではあるが、読む価値はあると考えた。
 これは加藤常昭氏が選んだものである。ボーレンに師事した訳者は、よき本に触れ、これを紹介したいと思い、この二つを集めたのだそうである。但し、あとがきにあったように、不当な訳書が別に出て落胆したそうであるが、そこはやはり導きであったのだろうか、本書が結局出て残ることになったとのことだ。
 それぞれの原著者の味が出ているが、バルトのものは、他の神学書とは大いに異なり、非常に読みやすいよいに感じられた。訳者の故かもしれないが、言い回しも、論旨もすっきりしている。もちろん、それは「説教」というものの何たるかに関心をもち、いくらかでも経験のある私であるからかもしれない。説教を聞いた量、また何らかの形でも語ったことがあるかないかで、読み方は違ってくるのではないかとも思う。しかしこの私にとっては、バルトの指摘は、実に隅々まで合点がいくものであった。全く同意見だ、とまでは言えないかもしれないが、バルトが言っていることが、こんなにも迫ってくるケースは、私はなかったかもしれない。こと説教とは何かという点については、バルトにたいへん近い思いを私はもっていることになるのかもしれない。
 それはそれとして、ここにある説教論は、かなり抽象的ではある。また、一定の背景知識も読み解くためには必要である。だから、偶々私の経験や私の知識が、その隙間を埋めるのに適していた、というだけなのだろう。説教の本質からずばり入り、説教の基準が様々な観点から検討される。そして、説教の準備について語ることでバルトの語りは結ばれる。
 次にトゥルナイゼンであるが、こちらも説教や牧会についての熱い研究があるわけで、本書においては段落も区切らず、また章立てはあっても素っ気ない題が付けられているだけで、実際味わってみなければその良さは分からない仕組みになっているのだが、やはり味がある。少し具体的なイメージを抱きやすい表現になっている部分があるが、自己の経験による確信があるのか、価値ある説教については譲らない主張も伝わってくる。読者は、多少好みが生じるかもしれないが、これもなかなか響いてくる内容である。
 説教学は、訳者の中でも福音の中核にあることであると思う。その説教についての世界一流の人物の熱い語りは、確かに見逃せなかったものだろう。それも、ひどく長大な本であるでもなく、いわば小品と呼んでもよいほどのものである。読者に提供するにも適している。私にとっても実によい質と量を覚えた。これは力になる。いろいろな人が引用するのも尤もだと改めて感じた。これは事ある毎に振り返ってよい本だ。いや、振り返らなければなるまい。そもそも神の言葉を語るというのはどういうことか、迷ったときに教示してくれることだろうし、励ましてくれるに違いない。
 ここにある論をそのまま踏襲する必要はない。読者が、ここから、自分が語るということはどういうことか、常に反省的概念をもって臨むためにも好機であると思うのだ。また、決して自ら語るのではない信徒にしても、牧師が説教を語るというのはどういうことなのか、それを知ることに、悪いことがあるはずがない。説教をどのように聞くか、そのためにも、本書は良い刺激になるであろう。出された料理を食べるだけでなく、それがどのようにつくられているか、素材がどのように手に入れられるか、そんなことに関心をもつことは、本当の意味で、その料理を味わうことになるものであろう。何度でも見直したい本である。  




Takapan
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