本

『北山修 最後の授業』

ホンとの本

『北山修 最後の授業』
北山修
みすず書房
\1890
2010.7.

 今年、九州大学を定年退職した教授。精神分析の方面においては、国内でも一定の業績を上げてきた著者である。この最終授業の様子はNHKでテレビ放送された。また、九大を退官するときの記念コンサートも放送され、九大のキャンパスのために著者により作られた歌も披露された。往年の仲間も集まり、賑やかで楽しいコンサートとなった。加藤和彦の死という悲しい経緯もあったが、かつての著者の姿を生では知らないはずの学生たちも、楽しく参加していた。
 身近にこういう人がいたというのは誇らしい気もする。ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーたる、きたやまおさむである。
 私はまだその意味を知る由もなかったが、彼らの登場している世相をほんのり覚えている。第二次のフォークルにいた、はしだのりひこは、その後もクライマックスなどのチームで明るいヒット曲を飛ばす。きたやまおさむたちは、やたらと騒がれるところから遠のいて、本来の学業に戻り、このように精神分析の一つの権威となっていった。そして、マスコミに顔を出すということがなくなった。いつしか、教授として九州大学に来ていることは、当初から私は知っていた。フォークルの地盤としての京都において、私や妻は何らかのつながりをもっているし、こうして九州の地にきたやまおさむが学術の世界で活躍しているというのは、不思議な気持ちでもあったし、うれしい気持ちもあった。
 その北山修教授の退官記念の講義と、それをまとめた本というのが、ここで出会ったものである。これが、実にいい。内容は、ファンならぜひ読んでみたいだろうし、すでにお読みではないかと思う。少なくとも、テレビ放送はごらんになったであろう。その放送の講義も含め、分かりやすく語りかけた講義がここに再現されている。
 ふだんの論文においては、彼はきたやまおさむであるところなど、微塵も見せない。それはまた、精神分析において「私」を見せないあり方にも通じるものであるかもしれないが、それがここでそのタブーを破った。思い切り、きたやまおさむでもあるのだ。だから、音楽的な活躍を少しでもご存じの方であれば、この本はたまらない芸能裏話にもなるはずである。同時に、精神分析についてこれほど優しく楽しく語りかけた本がかつてあっただろうか、と思わせるほどに、素人の私にも分かりやすかった。
 どうして人は二つに分裂しているのか。そもそも「私」という言葉そのものの中に、二つに分かれている自分というものが前提してあり、古代の人もそれを知っていたに違いないという。「私を隠す」が「私」の語源だという説をここで紹介している。そして抑圧された一つの私なるものが深層心理としてその人を司ることにもなる。そうした構造を、生の講義において生き生きと伝えてくれる。西洋理論の受け売りではない、今ここの立場からの視点がそこにある点も、特筆すべきところである。やがて分析は、夕鶴などの問題に移り、そこで私の目を惹いたのは、夕鶴の主役である鶴、すなわち「つうはキリストである」というテーゼであった。単純に結論できるものではないのだが、キリスト教が日本にかつて伝わり、それが一つの物語の姿において鶴の恩返しという姿で提示され保たれ伝えられたのではないか、とさらりと漏らしている。キリスト教は1549年に伝えられた、というような歴史の決めつけを信じさせられているから、そこに戸惑いを覚えるかもしれないが、そんなことはまさかあるまい。こっそり古代に伝えられていたという節を強く言う人々もいる。少なくとも、キリスト教が存在し、異邦人伝道を神の命令として受けて命を懸けて外へ出ていたのは事実であるから、日本に届いていない、と断言するほうがおかしい。
 本を読んでいて、霊感が与えられるというか、読みつつ自分の思いつきが次から次へと浮かんでくる本というものがある。発想を促す、触媒のような本という意味である。この本は、私にとってそうであった。なん頁がめくるうちに、ああそうかと気づくようなことがどんどんわき起こっていて、度々めくる手を止めてメモに走ったのである。そして、教育というのは、そういう働きが貴重なのではないか、とも思わされた。先生が教えを強いるのではなく、生徒に考えさせ、生徒の中から新たな考えが浮かび、それまで見えなかったものが見える、気づくようになっていく、そうした働きをつくりだす先生がいたら、まことに名教師である、と思ったのである。
 分かりやすい例を用いてくれていたので、楽しめたのかもしれない。専門的に衒学めいたことをするつもりは、この本にはない。ただの、元芸能人の名物教授の戯れ言などではなく、ひとりひとりが自分を見つめ、人から見られる自分などという事柄について落ち着いて考えてみたいという場合には、実によい触媒となるであろう本であると思う。今では30代にやたらめだつ「ひきこもり」といった問題についても、見られる自分という問題が潜んでいる場合が多いのならば、ますますこの本の存在意義は大きくなる。
 いや、とにかく読んでいて楽しい。楽しい、などと言うと著者に失礼な部分があるかもしれないが、私はおそらく、喜んでくださるだろうと信じている。実に楽しい。楽しくなる本である。私はそのことは自分の体験として、誇らしく宣伝させて戴きたい。
 なお、蛇足であるが、著者は近年、日本人の中に何かしら原罪と言えるようなものを見つめようとしているように見える。日本という軸から深く心に入り込んでも、原罪という概念に関わってくるというようで、興味深いものがある。




Takapan
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