本

『記者は何を見たのか 3・11東日本大震災』

ホンとの本

『記者は何を見たのか 3・11東日本大震災』
読売新聞社
中央公論新社
\1575
2011.11.

 讀賣新聞は、大きな全国新聞社である。2011年3月11日に始まった東日本大震災の報道についても、当然全国的な視点から多くの情報網を使い、報道を続けていた。ただ、他紙と比べて、私の印象では、ネットに出してくる情報はやや少なめではないかという気がしていた。本紙を直接見ていないので、それがネットだけの問題であるのかどうか、私には判断はつかない。あるいは、報道が簡潔にまとめられている、というように受け取ればよいのだろうか。それも私が評する資格はない。
 しかし、記者たちはそれぞれ、報道されない段階での厖大な取材をしている。それは当然想像できる。選りすぐりの記事しか表に出て来ないわけで、今回の地震のように広範囲に被害がわたった場合、各地での取材量は本当に限りないと言えるほどのものであったことだろう。
 ここに出された本は、そうした記者たちの言葉を集めたものである。78人の名前が目次に並ぶ。頁にして290。一人あたり4頁に満たない。これでも、告げたいことの百分の一も語れないほどに狭いスペースなのだろう。だが、それでも、記事にできない背後の事情や、取材地で何が起きていたのか、一人の人間として見た状況など、記事とは違う眼差しの風景がここに表されていることを、私は感謝の心で受け止めたいと思う。そこには、一人の人間がいる。慟哭の中でカメラのシャッターを切らなければならなかったプロとしての仕事もある。記事にできなかった人の姿も、差し支えない形で描いてくれる。そして、一般人が踏み込めない状況を経験した人のレポートであるため、貴重な資料ともなっている。
 新聞記者という仕事を知るのにも役立つ。それは時に良心との戦いにもなり、また自らの非力さを見せつけられる重荷をも受ける。知人に記者がいるが、その表に出ない働きや苦労をも、垣間見るような思いがする。
 それはそうとして、被災現場を、写真という形で知らせる役割の人々や本もある中で、これはその殆どを文章で伝える。写真は、しばしばそれを見る側の想像力に委ねられるような存在意義をもつ。たとえばこの本の表紙には、讀賣新聞の写真で海外に大きく取り上げられた、女性の写真がある。写真の力は一入である。他方、文章は人の心がほぼ忠実に伝わると考えられる。情報量は少ないかもしれないが、思考する人間として、揺り動かされるものを確かにそこに含んでいる。それぞれの形で、貴重な資料を提供してくれる。
 その、人々そのもののことへと、私たちの心は向かう。ある意味で、こうした記者たちの苦労など、どうでもよい。そういうふうに、傷ついた人々のことに思いを寄せることができたらと願う。伝える管は透明となり、その先に、私たちが見つめ続けていかなければならない人々だけが見える状態であったらいいと思う。
 また、そこからは離れるが、ベルリン支局の記者の報告も印象に残った。そこで日本はどう報道され、どう見られていたか、それを明らかにしてくれる。ドイツは放射能への関心がことのほか強い。その後原子力発電所に対する動きについても、特異な動きを示している。十年ほど先には、全原発を停止すると決定したのだ。どうしてそうなったのか。この記者のレポートがヒントを与えてくれる。どう誤解されたのか、どんな雰囲気であったのか、それがこの短い文章の中で窺える内容なのだった。
 これは、震災報道の「サイドストーリー」である、と「あとがき」に記されている。記者たちの体験の記録であると、自らに言い聞かせるかのように宣言している。「まえがき」が「因果な稼業」で始まったこの本が、「伝える」歩みを力強く宣言している、そこに、記者たちの憂いと勇気とを受け止めておくのが、読者としては適切なスタンスなのだろうか、というふうに私は思っている。




Takapan
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