本

『奇跡を考える』

ホンとの本

『奇跡を考える』
村上陽一郎
講談社学術文庫2269
\720+
2014.12.

 科学史家として著名な著者である。1996年に岩波書店から刊行された、宗教についての講座の中に置かれていた文章を、ひとつの文庫にしたという具合である。それにしては文庫としてもなかなかの量である。最後に少し補遺が入れられているとはいえ、まとまりのある大部な力作である。
 最初に出されたその時代、宗教にとって大きな事件があった。1995年の、オウム真理教の事件である。またその年は、阪神淡路大震災で始まったのでもあり、日本が大きく揺らいだ時でもあった。宗教とは何か。宗教に何ができるか。問われた時でもあった。麻原彰晃は、奇跡を見せ、純朴な若者を次々と虜にした。村上陽一郎氏は、歯がゆかったに違いない。いったい、奇跡とは何か。宗教にとり奇跡はどんな意味があるのか。できることは、学術的に説くことであった。ペンの力で、しかも個人的な論評なとではなく、人類の知識財産の中における意味付けとして、奇跡について訴えることであった。こうした奇跡についての理解があったのなら、あの若者たちは自ら暗闇に陥らず、また他人を傷つけずに済んだのに、という悔しい思いがあったのかもしれない。
 西洋文明における科学史を専門とする著者にとって、また、一人のクリスチャンたる著者にとって、論ずるフィールドは、西洋史という場になるのだが、奇跡と宗教について論ずるのに決して偏ったものとはなっていない。科学そのものか、西洋文明の中での思想であるからだ。その意味で、科学そのものも当然問われている。科学もまた、奇跡とは決してかけ離れた存在ではないのだ。何がしかの前提や了解が違うだけで、成立している構造そのものが相容れないようなものではない。著者は、そのあたりのことも触れながら論を展開する。
 まずは、奇跡と魔術との相違というものについて問うところから始まる。それらは全然違うではないか、と思われるかもしれない。だが、問いなおしてみれば、実に紙一重であることが判明する。戦争において自らは正義、敵は悪、と断ずることが、双方の論理として成り立っているように、奇跡と魔術についても、奇跡の側から単に述べているときにそのようになるに過ぎないかもしれない、というのだ。
 科学史家としての腕前というと失礼だが、やがてガリレオ裁判について詳しく教えてくれる。教科書に短く書かれてあるような事態とはまるで違うことに驚かされる。その中で、科学というものがどのように成立していくのか、読者は劇的に知っていくことになる。ガリレオは、実はさほど神学を揺るがしてはいない。私たち現代人から見れば、時に適切に自然を論じているかのようにさえ見える。しかし、当時の時代的な敵対者の思惑などにより苦難の中に追い込まれていったのであった。その中で、自然の研究が神とは無関係に語られ得る地盤ができるようになり、ルネサンスから近代への思想の流れがそこからできていくことになったのだ。
 補遺として、この文庫のために、2014年の視点から、著者の科学観が添えられている。如何に近代が、人間を中心に据え、人間の視点で展開しているかが説かれている。いや、もしかすると、人間が暴走しているのかもしれない。この補遺のタイトルは「科学が宗教になる」である。




Takapan
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