本

『きこえない子の心・ことば・家族』

ホンとの本

『きこえない子の心・ことば・家族』
河ア佳子
明石書店
\1200+
2004.10.

 聴覚障害者カウンセリングの現場から。サブタイトルが七色の文字で表現されている。それは、聞こえない子には様々なケースがあり、十把一絡げにこういうものなのだ、と決めつけることができない、という著者の強い主張がこめられているのではないかと私は思った。
 というのは、あとがきにあるのだが、臨床心理学の学究的立場にあって、このようなカウンセリングの様々なレポートを持ち出すのは、学問的ではなく科学的な追究法になっていないという批判を浴びたという背景があるというのだ。しかし、聴覚障害者はとくに、一人ひとりその具合も置かれた立場も違い、それぞれのケースに合わせて寄り添って考え、対処していかなければならない面がある。それが科学的でないという非難は結構だが、それでは、かつて口話教育を押しつけ、手話の使用を許さなかったことの、どこに科学的な態度があったのか、と著者は逆質問する。
 これについては、私はその通りだと拍手を送るだけだ。あの口話の強制は、権威の下に、強者の論理に従わせ、ろう者の気持ちを踏みにじるばかりか、その人権を全く認めなかった行いなのであった。著者は、その害を受け、あるいはトラウマに悩まされた家族のあり方を追い、レポートしている。手話をなるべく使うなという中で悩む親や子が、そこから抜け出すような例がいくつも紹介される。それほど大きな影響を与えてきたのだ。
 聞こえないことそのもののために苦しむ、もちろんそれはある。しかしそれは、聞こえないがために多くの人とコミュニケーションが取れないのが一番苦しいことであるかもしれない。そして、こうした人々とはコミュニケーションをとる必要がないと断じて、無視し、あるいは社会の片隅に追いやった聴者が、今度は彼らの懸命のコミュニケーション方法である手話を禁じたのだ。そして完全にはできないであろう口話を強制し、つまり聴者は何ひとつ労することなく自分たちに合わせろ、それが幸せなのだ、と決めつけて縛った。これは、海外の国を支配して名を改めさせたことと比べても、さらに残酷な抑圧であるとも言える。
 その責任をうやむやにしておきながら、そこから立ち上がろうとするろう者や家族に聞き取ることに、大学の職員たる者がするのは適切でない、と言える権利が、どこにあるのか、私も分からない。だったら学問とは何であるのか、何のためにあるのか、とさえ思う。おそらく、税金や予算を使ってやるから学問的成果を出さないものは禁ずる、ということなのだろうけれども。
 さて、本の内容は、切実である。小さな心がどんなに傷つき、あるいは戦っているかを私たちは知る。そんなふうに影響を与えるのか、と私自身もはっとさせられることもあった。傍から見ればとてもわがままであり、手に負えないような反応をするにしても、そこには背景がある。しかもその背景というものを、聴者の側の論理で作ってきた社会や態度であったとしたら、どうだろう。多数派の側にいる限り見えてこない、社会の不公平や差別といったものに、できるだけ気づきたいとは思わないだろうか。
 障害者が社会の中で差別や人権無視の扱いを受けているという報道が昨今なされる。その度に、障害者が贅沢になってきたとか、日本の福祉は恵まれているからそんなことに文句を言うなとかいう意見を、正論として吐く者が必ず出てくる。その上で、障害者も同じ人間で変わりがないのだから、と理由を付ける者もいる。一見尤もなようだが、実のところ同じ人間と扱われていないからこそ、その事態が起こっているのであり、この強者の自己中心的な論理がまかり通るような場面があるということそのものが問題となっているのだ。そして、このような意見を言う者は、自分は決して差別などしていない、差別しないからこそ同じ人間だと考えて言っているのだ、と開き直る場合がある。
 だから、ていねいに、一つひとつのケースを追い、文学的に訴えていくということも、大切なのだ。理論化するというのは、すべてを画一的に処理しようとする意図によりなされることがしばしばあるからである。
 日本手話通訳士教会の機関紙に連載されてきた短いレポートがこうして集まると、大きな力になる。一人ひとりのこどもたち、またその親や家族の姿が浮き上がってくるからだ。一人の声は小さいかもしれないが、それが集まれば何かができる。そしてこの場合の「声」は、音声とは限らない。手話であっても、もちろんよいという意味である。




Takapan
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