本

『子ども文化の現代史』

ホンとの本

『子ども文化の現代史』
野上暁
大月書店
\2000+
2015.3.

 これはなかなかの本だ。
 サブタイトルは「遊び・メディア・サブカルチャーの奔流」とあるのだが、これだけではまだ魅力が伝わらない。『小学一年生』の編集長の経験者が、子どもの文化について研究してきたことを通観するような一冊である。様々な子どもの現象と実態が余すところなく振り返られるような本であり、誰もがどこかで思い当たるものがあるはずの歴史である。  政治権力の興亡史でもないし、仏像や建築、はたまた世界的文学の文化史でもない。おそらく幾多の文化史の中からは抜け落ちていた、あるいは無視されていた、あまりにも生活に則した日常の出来事をかき集めたかのような記述である。しかし、思えば自分にとり、きっと他の歴史よりも大きな影響を与えた生活史なのではないだろうか。
 これはまことに世代を物語るものだが、ここでは戦後史から物語るようにされている。マンガやアニメは戦前からもあった。が、それらに特化して語ろうとする意図はない。戦後、子どもたちはそれまでとは一変した生活環境に置かれたが、そこからいわば「自由な」子どもたちの人生が与えられたとするならば、画一的な価値観を向けられた時代が過ぎた中で、子どもたがどんな文化を選んでいったのか、という観点は、興味深い。
 戦後当初、大人たちは、子どもたちの文化をどうしようなどというゆとりがなかった。子どもたちは、物資がない中でも、遊びは考える。どんな遊びをしていたか。やがて、経済的な問題が少しずつでも改善していく中で、子どもたちに及んだ経済的影響はどういうものがあったか。また、その経済を利用して子どもたちはどのような遊びを考えたのか。それからまた、商戦が子どもたちを市場として展開し、文化の名で利益を第一としたり、利益を交えつつ文化が創られたりしていく。そのあたりの経緯と背景が、読みやすい程度のテーマでまとめられた章により記述されていくのが、理解のためには適切であると思われる。7頁ほどの項目が、写真も含め、ひとつのテーマや時代を切り取っていく。これが読みやすいのだ。
 ひとつひとつを懐かしむのもいいだろう。自分の子供時代の位置づけをするのもいいだろう。自分は世の中でこういう位置に組み込まれていて、あるいはこのような背景で自分が築かれた、自分はこうやって創られたようなものなのだ、と知る機会にもなるだろう。しかし、筆者は、これからも現れ続ける子どもたちへの視線を忘れない。いや、それが気になるがために、過去を振り返っていたに違いないのだ。その子どもたちが未来を創る。まさに今子どもである人々が、確実に未来を決めていく。その子どもたちに今責任があるのは、自分たち大人なのである。子どもたちの文化を大人が大人の都合で支配していることを意識せず、なすがままに任せているようなことであってよいのかどうか。よいはずがないだろう。
 もちろん、昔をただ懐かしんでいるわけではない。昔はよかった、と懐古趣味に興じているわけでもない。今大人として自分たちが、また筆者の子どもの世代が、子どもたちに対して何をしているのか、何を遺そうとしているのか、問いかけなければならないのだ。
 子どもたちは果たして、自分で考える力を養っているだろうか。
 木の枝を拾えばチャンバラ遊びもできた。肥後守で削って自分で実現したいものをこしらえた。貧しかったけれども、自分の中の何かを実現しようと動いていた。大人が商売のために、要求する前に提供し供給し続ける電子遊具や、プレミアもので経済原理をもたらすようなカードやバッジばかりが、子どもの文化として語られるもののすべてとなっていてよいはずがない。子どもたちが自分のしたいことを自分で見つけるようにするにはどうすればよいのか、それを大人がして見せ教える、という構造そのものの中に、矛盾が潜んでいるような気がしないでもないが、子どもの文化について、かつての姿と比較することによって、問わなければならないという必要を、世に訴えるためにも、誰もの心をくすぐるこのような企画を以て、ひとりひとりに迫らなければならないのである。
 決して、それはサブな文化ではないと思う。




Takapan
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