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『共観福音書が語るユダヤ人イエス』

ホンとの本

『共観福音書が語るユダヤ人イエス』
共観福音書研究エルサレム学派編著
有馬七郎・河合一充訳
ミルトス
\2000+
2016.3.

 これまでに世に問うた3つの著作をひとつに集めたようなものだと記されている。中に幾人かの論文がまとめられているようなものだが、確かに一冊にまとめてその主張や流れが明確になる、この種のものとしては成功した部類に属すると言えるだろう。
 主張は一点である。イエスはヘブライ語を話しており新約聖書も元来ヘブライ語で成立した、というものである。近年この考え方が広まってきているが、その先駆あるいは原点となっているのが、このグループではないだろうか。
 つまり、そもそもの疑問が私たちにはあった。どうして新約聖書はギリシア語で書かれているのか、ということである。今風に考えれば実に奇妙なことに気づく。日本人の偉い人がいろいろ話したことが、日本語ではなく、英語で後世に伝えられている、という様子である。たしかに、明治期以来、内村鑑三も新島襄も英語で著述した。その時代を考えれば見事というほかない。新渡戸稲造でも鈴木大拙でも、海外で認められるような人物が英語で書いたというのは、目的もあったことだとは思う。しかし、こうした人々も、日常生活は日本語を話していたはずである。また、英語に置き換えたとき、日本の精神を伝えることがどこか抑えられたり、歪められたりしているという可能性は大いにある。英語としては不自然であっても、日本語に戻すと日本人ならよく分かるというフレーズや表現があるかもしれない。
 同じことが、聖書にも適用できるとすればどうだろう。新約聖書は、すでにエルサレム神殿が崩壊した世界では、ヘブライ語で訴えても広まることが予想されない。異邦人社会にも通用する、国際語たるコイネーなるギリシア語に直すことが得策であろう。しかし、そのためにはメモなりなんなり、元来のヘブライ語の資料があったとするのが自然である。それをギリシア語にする。これは見る人が見れば、たどたどしいギリシア語である場合があるというが、それはまた、ギリシア語として不自然なようであっても、案外、元のヘブライ語をギリシア語に置き換えようとして、あるいは直訳しようとしたために、ネイティブなギリシア人からすれば不自然に見える、といううようなことがありうると思われるのである。
 そのような眼差しで共観福音書を見ると、これまで世界的に常識とされていた、マルコの福音書が最初にギリシア語で書かれ、それを他のQ資料なる架空の資料集に基づいてマタイやルカが編集し直していくという説も怪しくなってくるのだという。本書では、ルカの福音書が最初に書かれ、マルコはむしろその後であるという論を示す。「すぐに」という意味の、マルコに特徴的な語も、その意図で加えられた語であり、これが居並ぶマルコ伝から、マタイもルカも意図的にそれを抜くということは考えにくい、などというのである。
 こうした説を、ただ抽象的に述べるばかりではない。よく知られた新約聖書の福音書の言葉の中で、解釈が難解であると言われていたいくつかのイエスの言葉が、そのギリシア語を元のヘブライ語に訳し戻す試みの中で、ヘブライ語Aがこのギリシア語Bになったという図式を押さえるならば、そのBの語をそのままギリシア語の意味で訳したところで意味不明となりかねず、むしろヘブライ語Aのもつ他の意味や含みを以て解釈するならばすっきり理解できるのだ、という実例をいくつも挙げる。これが本当であるならば、一読して、新約聖書の不思議な表現が、いとも簡単に理解できるようになっていき、筋がすうっと通っていくのを感じることは間違いがないのを私も感じた。
 日本人が英語で書いたものを、英語のネイティブな意味ではどうのこうの、と議論しても、著者たる日本人の意図を説明したことにはならないであろう。私たちは、イエスのことばを翻訳したギリシア語にあまりにもこだわりすぎてはいないだろうか。少なくとも、その点への反省を促すためには、どのような研究者や解釈者、また信徒に対しても、これはよい刺激となるし、警告となるであろう。だからまた私も、諦めかけていたヘブライ語をもう一度学びたいと思うようになった。




Takapan
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