本

『語りきれないこと』

ホンとの本

『語りきれないこと』
鷲田清一
角川oneテーマ211A-151
\760
2012.2.

 危機と傷みの哲学。副題としてすぐそばに寄り添っている言葉である。哲学者という立場を表紙にもはっきり記している。著者は、人気の作家の一人ともなっているが、その言葉は分かりやすく、しかも深く考えられ、気づきにくい視点を提供してくれる。大学学長という立場も経験して、さらに多くの視点を得たのかもしれない。
 哲学というと、へたをすると哲学者の研究をしているかのように見える。でないと、かなりの場合、形にならないのである。それに抵抗する人もいるが、そうなるとむしろひとりよがりになり、自分で自分の思想を称えるだけの者となりかねない。著者は、努めて、日常のなにげないような行動やその心理を表す言葉に光を当て、それについて深く思索する。文章がうまいのもある。また、学長を務め、いわば政治的にも多様な経験をし、その点でも優れているということもあろう。ここでもまた、ひとつのテーマで思索した。目の当たりにした震災の姿とその後の報道の中から拾い出したテーマは、「語ること」であった。
 語りなおしとは、じぶんのこれまでの経験をこれまでとは違う糸で縫いなおすということです――本の初めに告げるこのいわば定義をもとに、被災者に寄り添うような形で、語り続ける。つまりは、語りを語るのであり、メタ語りということである。
 とてもその時のことを語れるはずがない。誰もがそう思う。しかしまた、それを聞く人が与えられれば、語ってしまったほうが癒されることがあるかもしれない。語ることで、いくらかでも自分だけが抱え込む苦しみが自分から離れていくかもしれない。それを、言葉の上から、現象の上から、そして私たちのなにげない習慣の中から、指摘する。もやもやとしたままのその空気を、掴もうと努める。こういうことが、確かに哲学なのだ。
 近年の時代の特徴は何か。共同体が崩れたのか。私たちはすぐにそのように言う。しかし、著者は調べる。明治時代に、すでに同じことが強く言われていた、と。私たちの安易な思いこみで物事を片づけようと急いてはいけないのだ。
 この哲学の語りには、論理的な展開はない。ヘーゲルなどを知る人が読むと、これは哲学などではない、と叫びたくなるかもしれない。もしかするとかろうじて、プラトン愛好家は、これこそ哲学かもしれない、と支持するかもしれない。
 この悲しい出来事から、私たちは判断しなければならない状態に追い込まれた。いったい、判断するとは、何を区別するというのか。どうしても必要なもの、なくてもよいもの、なくていいもの、そしてあってはならないこと。これらを区別することが、教養があるということなのだと説く。震災は、広くこの日本社会全般に問いかける。いったい何が必要であるのか、と。
 このようにして区別するのは、言葉による。私たちは言葉で思考し、言葉で整理する。言葉で癒されもする。それは、神が言葉であるとする新約聖書を説くためにそう言っているのではない。言葉が、ほころびた心を編みなおす繊維であるからだという。
 かくして、たんに震災問題を扱うだけでなく、私たちの精神生活の枠組みの中を塗りつぶすかのように、コミュニケーションや対話、責任とは何かという課題などを、考察していく。被災者に質問するような報道のあり方は、言葉によるこの編みなおしには相応しくない。一緒に溺れるほどにまで自分の精神を追いやってしまうことにより、初めて何かを被災者に向けて語ることもできるのだろう。じっと傍にいるだけでしかないような、取るべき行動の姿。私たちはそこに「待つ」ことしかできない。だが、「待つ」ことができる。いつか言葉が生まれるまで。言葉が語られることで、壊れた心をつくりなおすことができるようになるまで。言葉は、心の息を吹き返すことができるものなのだろう。たかが言葉、それど言葉。だからこそ、新約聖書も、言葉の中に神を見ているのだろう。
 聖書をケセン語で訳した山浦玄嗣さんのことにも最後に触れられている。みちのくの語りの伝統をそこに見ている。この語りから、言葉がこぼれていくところに、希望を見いだしている。それはもちろん簡単なことではない。また、安易に口に出すべきものではない。私たちは「待つ」のだ。著者は他に、この「待つ」と題した本で、その分析を行っている。
 正解のない状況の中で、価値判断を自らがしていく決意をし、必要かそうでないかを区別していくという営みの中で、私たちは○×に頼らず、見守っていくことをするとよいだろう。言葉の力は小さくはないのだ、ということを覚えつつ。




Takapan
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