本

『関係する女 所有する男』

ホンとの本

『関係する女 所有する男』
斉藤環
講談社現代新書2008
\777
2009.9

 西日本新聞の書評欄は、私の読書傾向とはかなり違い、私の読んだ本は載らないし、書評にある本には食指が動かないのだが、珍しくこれは読んでみようかなという思いに駆られた。
 というのは、地図が読めない女性といったことで、男女の違いについて脳の構造があるのかなというふうな話を聞いていたからである。特に、私はそんなに簡単な理由で違うようにも思えないが、という気もしていた。たしかに、おおまかに言って、傾向的な違いはある。が、それはまさに血液型占いのようなもので、あてはまると言えばあてはまるような気がしてくるが、そんな型に悉く収められるはずはなく、帰納的な説ではあるものの、演繹的な原理性はないような気がしてならなかったからだ。この関係・所有の本は、そうした脳による性差を粉砕しているというのが、その書評の指摘だった。
 精神分析というものについては面白いと思う反面、胡散臭さが残るのも正直なところである。そうしたことが可能であるならば、哲学の歴史の中でとうの昔にそんなことが成功しているはずではないか、などと。言われてみればそうかな、というアドバイスにはなるかと思うが、果たして科学というだけの価値を持ちうるのかどうか、怪しんでいる。
 とはいえ、人間の営みについて、ひとつの原理的なものを探ろうとすることそのものが無意味であるとは思えない。この著者の観点は、男女の違いであるが、それについては、セックスとジェンダーという捉え方が大きく異なっている。この本は、外見からは伝わらないが、その「ジェンダー」とは何か、ということについて学ぶのに実は役立つものである。本題を展開する前に、このジェンダーの歴史や誤解、そして本質について長々と説明をしてくれている。ともすれば妙な政治的確信者により、ジェンダーを口にする人々がその瞬間に糾弾されるなどということがありがちであるが、ジェンダーという視点を適切に使うことによって、人々が互いに理解し合えるひとつのきっかけを得られるとなれば、それは有用ではないかという気がしてくるのである。
 ただ、この本は中程からトーンが変わってくる。いやはや、私はついて行けなくなるのだ。それは、いわゆるオタク文化とでも言えばいいのか、サブカルチャーと言えば敬意を払うことになるのか知れないが、その方面の話題で持ちきりになるのだ。その方面に詳しい著者であることはよく分かるのだが、マニアックなことをご存じの方々には常識的で指摘内容が目の前に浮かんでくるであろう事柄が、疎い者にはその用語をはじめ、言っている内容のイメージがまるでつかめなくなってきてしまうのだ。新書という制限があるものの、もう少し初心者に分かりやすい説明をしてほしかった。あまりにも前提を省いたままでのマニアックな解説が熱っぽく語られ続けるので、ぼんやり想像はしてみるものの、把握できる感覚がついに得られなかったのである。当然既知のものとして非常に多く用いられる「腐女子」なる言葉も、確たる感覚をもって捉えることはできなかった。
 ところで、一冊を用いて論じてきたものは、女の関係と男の所有という対比であった。ここでいう「女」とは何か、「男」とは何か。結局、関係を原理とする傾向がある存在者を「女」と呼ぶのであるのか、セックスでなくジェンダーとしての「女」がそういう傾向をもつというのは、私はまだ判然としない。読み方がぼんくらであるせいだろう。表紙にあるように「明快に論じる」というのが本当なら、快刀乱麻に料理してあったのだろうが、印象に残るのは、まだ自分にはよく分からない、という呟きばかりであった。それはそれでよいのだ。自分は真理を発見した、という自信満々の自慢がいかに詐欺であるのか、誰もがよく知っている。しかし、それならそれで、明快に論じたとまで言わなくてもいい。せいぜい、一般的に、女性に対してこういう言い方をすると噛み合わないというか、共感をもたれないのだろう、というような傾向をいくらか教えてもらった、とでも言えばよいだろうか。実生活の中で、ちょいと役に立ちそうな気はする。自分で正当に言い放ったような気になっていたとしても、女性陣にはちっとも支持を得られることがなかったという、これまでの人生経験の数々の一つの訳を教えてもらったという意味では、意義ある本であったことは間違いない。




Takapan
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