本

『神の国の種を蒔こう』

ホンとの本

『神の国の種を蒔こう』
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ著
木村晟監修・岡田学編
新教出版社
\2000+
2014.5.

 ヴォーリズの建築は、福岡でもおなじみだと言える。バプテスト系の教会に、時折その形式のものが見られる。講壇が高い。木調の風景は、格調を覚える。通っていた高校はキリスト教系ではなかったが、古く木造であったことで、木の香りが漂っていた。そういう時代の建物である。
 近江で教師としての歩みを始めた若者は、宣教師や牧師といった資格や制度の中で働いたのではなかった。だが、神に示され、導かれ、ついに日本で福音を伝えることができないかと海を渡ってきたのだった。偏見や誤解の中、英語教師としての道が断たれてなお、元来本職とは言えなかったであろう、建築の事務所を開き、日本全国にキリストの香り漂う大学や教会などを建築してまわった。
 その純朴な信仰は、少し話を聞けば直ちに分かる。
 そのヴォーリズが、雑誌「湖畔の声」に、明治以来半世紀に渡り寄稿してきた原稿は、積もり積もって偉大な福音の足跡となっていた。短い原稿でも、半世紀を連ねることは驚異的である。そこから、キリスト教に強く関係すると思われる原稿を集めたのが、本書であるという。
 その他、若干の別の原稿も含まれるが、概ね、その2,3頁ほどの原稿の集まりが、この本の主体である。1912年から1960年までがここにある。だが、その年月を感じさせないほど、後半にもフレッシュであり、前半でも威信がある。何故か。それは、主の言葉は変わることがないからだ。いつでもどこでも、聖書に根ざし、聖書の内容を自分という器を通して表現しようとだけ考えているのであろうから、本質がぶれることがないのである。
 その一途な信仰と叫びは、今私たちが読んでもずしんと来る。まことにその通りだと肯かざるを得ないし、襟を正されることばかりである。恥ずかしくなることも多々ある。
 だが、そこから目を背けるということは、元来の聖書の言葉に背を向けるということにもなりかねない。
 日ごろ、自分の蔵書には、黄色のマーカーでラインを引くのを私は常とする。だが、この本について言えば、そのラインを極力減らそうと思うに至った。引けば、きりがないのである。すべての行にラインが残るようなやり方は、国語の問題を解くときにやってはいけない失敗であるが、そのようになりかねないと、すぐに思ったのである。ラインを引くにもストイックに対し、全くラインのない見開きができるように仕向けた。だがそれは、そこに大切なことがないとか、感銘を受けることがなかったとかいう意味ではない。どうしてもここだけはまた目に留まるようにしておきたい、また開いたときにその箇所だけが目に入ることで、自分はきっと項垂れることだろう、と思われるような引き方をすることに決めたのである。
 ヴォーリズ建築のファンは今も多い。また、日本に帰化する折の苦労話も知られているが、ほんとうに大変だっただろうと思う。その中で、敗戦した日本において、天皇制を守ったのはこのヴォーリズその人ではなかったかと言われるほど、戦後日本の国のあり方について重大な寄与をなしたことは、もっと知られてよい。このヴォーリズが、本来のキリスト教信仰とその宣教についての熱い思いをここに連ねている、つまり、ヴォーリズの人生や貢献などについての社会的評価あるいは伝記的部分については、これは他書に任せるべきであって、この本の役割は、信仰そのものにある。だから、これは基本的に、クリスチャンが読むべきだと考える。もちろん、そうでない人の目にも触れてほしいが、クリスチャンが、自分の生ぬるさを痛感し、態度を一変するのに役立つ、というのが私の見立てである。まさに、私自身がそのようにされたのである。
 その意味で、この本はまさに、神の種を蒔くことをなす本であることを、私は疑わない。




Takapan
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