本

『釜ヶ崎と福音』

ホンとの本

『釜ヶ崎と福音』
本田哲郎
岩波書店
\2625
2006.3

 神は貧しく小さくされた者と共に――というサブタイトルが付いている。「小さい」ではなく「小さくされた」がポイントである。いわゆる釜ヶ崎の人々は、望んで小さくなったとか、元来小さかったという意味ではなく、社会の仕組みによって、望まずして小さく強制されたからである。
 カトリックの司祭による本であるが、初めのほうにある証詞が強烈であった。それが特別なことでないように聞こえ、深い真理を宿していることは、直感的に理解した。自分のことを、どんなに醜い部分をもって歩んできたか、の懺悔のようにさえ見えた。自分の心にある醜さを、長々と告白する。告悔をしているかのようである。
 聖書の解釈も様々あるだろうが、えてして信徒が描きやすいイエス像をここでおさらいしてみよう。白い衣、輝く瞳、弟子たちを愛する眼差し。いわばカッコいいイエスであってほしい、という私たちの願いも関係しているかもしれない。
 だが、改めて聖書に忠実に、その場面を再現するかのごとく、その姿を想像すれば、金もなければ権威もない、貧相な姿に一般に見える、そんなイエスの姿が浮かび上がってくる。
 大阪の釜ヶ崎と人が呼ぶ地域に、多くのホームレスの人々が集まっている。彼らに触れあうときの最初の様が、実に公平に細かく記されている。なんと自分は高いところから彼らに接そうとしていたことか。そうではない。小さな、いや、社会によって小さくされた彼らである。それは、新約聖書でイエスのまわりに集まった人々と同様であり、神は、そのような者たちの味方としてはたらいたのではなかったか。さらに言えば、旧約の世界でも、そのような民族であったイスラエルをこそ、神は助けたのではなかったか。
 もとより、家族というものを所有しないカトリックの司祭である。思い切って、日雇い労働者を自ら試みるというのも、ある意味で羨ましい。家庭を握る私たちは、そうした行為に走ることが、できないと言ってもよい。だが、それは多分に言い訳である。どうしたって、なかなかできることではないのだ。それは、著者自身が正直に胸の内を吐露してくれている。
 このように、行動した人の言葉には力がある。どんな百の理論よりも、一の体験は、説得力がある。だからまた、著者は言う。キリストは身をもって福音を示したのだ、と。まさに「身をもって」というところに、力がある。だから、行動を起こすことの必要性が、巻末にはあふれるように描かれている。そして、力があるということに、神のはたらきを読みとるのである。
 この本には、聖書の解釈に多数の頁が割いてある。従来の聖書の読み方には、大きな欠点があったのだ。イエスのなにげない仕草の中に、どんなメッセージが隠されているのか、改めて考えさせられる。首尾一貫した主張により、その点は量は多いが実に読みやすい。
 現実に、釜ヶ崎の人々は、どんな苦労を背負っているのか。それは公務員たちは相手にしないようだ。住まいがないから苦しんでいるのに、その住まいを得るための住民票などは、住まいがないがゆえに発行できない。こんな、行政上の欠陥もある。
 炊き出しも必要だろう。だが、先へ続く視点を私たちはもたなければならない。彼らは、仕事をしたい、という叫びが強いのだが、そのための支援ができないものかと模索するのである。命を絶やさない緊急のために炊き出しなどをしながらも。その中で、著者は叫び。私たちは、彼らよりも上に立っているのではない。社会の底辺にいる彼らの中にこそ、はたらかれるキリストの霊がある、と。もとより、貧しい人々を美化するつもりはさらさらない、と著者は言う。そうした点もきちんと押さえてある。その通りだ。だからこそ、よく言われる「共に生きる」という言葉も、この構図の中に成立しているといえる。
 高いところから、自らの手を下さず、サマリア人がけが人を助けるに先だって、自らが穢れぬよう遠巻きに見ぬふりをして通り過ぎたユダヤの祭司――それが私自身の姿だと思い知らされる。そんなのは、「共に生きる」ということでは、全くない。
 福音を信じて、クリスチャンは何が変わったのだろうか。自分が何か救いの秘訣を知って、それを、まだ知らない人に分け与えるというのだろうか。神の秘密を教えてもらったにも拘わらず、謙遜にも知らない人のところまで降りて行って、教えてやるというのだろうか。いや、世の中で見捨てられ、取るに足らないとされる人々を、自分もまた虐げていることに気づくこと、そうした人々と共に神がはたらいていることを感じること、神自身、今もイエスのようにそのような低いところから発しているそのか細き声が聞こえるようになること、それではないだろうか――この2段落は、著者というよりも、私の考えていることである。
 聖書解釈を、この本のままに受け容れよ、と言うつもりなどない。だが、初めて聖書を読んだとき、頭を殴られた感覚をもった私だから、敢えて言いたい。クリスチャンには、この本と向き合う必要がある、と。




Takapan
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