本

『「かくれんぼ」ができない子どもたち』

ホンとの本

『「かくれんぼ」ができない子どもたち』
杉本厚夫
ミネルヴァ書房
/\2100
2011.1.

 なんとも、読んでいて苦しくなってくる本である。近頃の子どもたちが、遊べない、うまくコミュニケーションがとれない、そんな悲観的なありさまに、悲しくなってくるし、未来像が描きにくくなってくる。
 悪意を以てそう書いているのではないにしても、こうした子どもたちの姿に、望みがもてなくなってくるような気がしてくるのは、ひとつには、それが当たっているからでもある。だからと言って、こんなに重たい気持ちになっていくというのは、どういうわけだろう。
 いやいや、私自身こそ、そのような苦々しい書きぶりをいつもしているではないか。おまえが張本人ではないか、と自分に刃が突きつけられてくるような気もした。さんざん人のことを悪く言い放っておきながら、いざ子どものことが悪く書かれたら悲しくなるだなんて、なんと自分勝手なことなのだ、と責められているような気がしてきた。
 タイトルが、また実に象徴的である。「かくれんぼ」ができないとはどういうことか。そこには深い理由がある。「かくれんぼ」には、いろいろな要素が隠れている。これができない子どもたちの遊びスタイル、考え方、さらにはそこに実のところ親の姿が見えてくる、こうした構図がいきなり暴かれる。
 つまるところ、親や社会の問題であることは間違いない。しかし、著者はそこを突いて自己勝利を味わうつもりはないようだ。誰かを責めて、それで問題が解決できるはずがない。いくらコンピュータゲームのプログラム性を暴いても、子どもたちを何かしらある体験、ある出会いへと導かなければならない。子どもが本来どういう側面をもっているか、そこにうまくなんとか結びつけられないかという試みが、著者らによって実践される。その実践的な営みが後半で紹介される。ここにも、現代病のような子どもたちのありさまが指摘され続けるのであるが、しかしそこから救いが見えてくる。皆を平等にしないこと、そのことで、逆に話し合いが生まれ、知恵が絞られる、その過程が多くの実例で紹介されるのである。
 痛いほど、辛い実情を突きつける。だが、そこから抜け出す道が提案される。こういうふうにできた実例がある、その報告が、実にうれしい。とことん問題点を、ぼかさずに暴露することにより、よけいに解決の方法の良さが見えてくる。この姿勢はやはり大切なことなのだろうと思った。私などは、その実践活動をことさらに示すまでもなく、問題点を羅列してそれで終わっているから、もっと悲惨なのだ。そうではなく、現実に子どもたちの活動を変える試みがたくさんなされているが故に、問題点をきつく指摘しても、よかったのだ。
 たしかに、子どもに現れるその現象は、なんでこんなことに、と嘆きたくなるようなことが多い。だが、その親たちの問題意識が得られたら、ずいぶん変わるだろうと思えるようになってくる。ここでも重要なのは、親たちなのだ。親たちが依然として、子どもに指示ばかりし、子どもの心の居場所を奪い続けていくのならば、どんなに学校や或る教育組織で子どもたちが生き生きとした体験を得たとしても、花開くことはないかもしれない。鍵は親である。だから、この本は、親が読まなければならない。さも、教育者や教育的活動実践者のための本であるかのように見えながら、実はひとりひとりの子の親が知るのでなければならない事柄が、たくさん詰まっているように見えた。ただの実践教育の専門的書物のように見える雰囲気が、もったいないと思う。もっとこれは、一般の親が、とくにまた子どもと接することの多い母親が、手にすることの多いような装丁と呼びかけをしてよいのではないだろうか。
 強烈な部分をもつからこそ、真摯に書いたのだと分かるし、また、真摯に読者も読んでその思想と出会うことができる。となれば、やはりまだ私の言論にもいくらかの意味があるのかもしれない、と慰めになる。ずきんとくる部分があるからこそ、価値をもつことは、確かにあるのである。私においてそれがうまくいっているかどうかは分からないし、違う場合が多いだろうが、諦める必要はないのではないか、と思えてきた。
 この本は、「遊び」の意味を問う。大人だって、うまく遊ばなければいけない。大人の皆さんも、「遊び」について反省してみませんか。




Takapan
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