本

『介入する神の言葉』

ホンとの本

『介入する神の言葉』
W.H.ウィリモン
日本基督教団出版局
\2400+
2014.8.

 出版されてからずっと気になっていたのだが、このたびついに手にした。もっと早く読みたかったとすら思った。心に響くものがあった。
 これは「洗礼を受けていない人への説教」という副題がついており、それはまさにタイトルのとおり、人間の思考や社会の中に、神が介入してくるというモチーフからすれば、確かに洗礼を受けていない人のために相応しいアプローチだと言えるだろう。だが私は、というよりたぶん著者もそうなのだと思うが、これは未信者へどういう説教をするのか、といったノウハウでないどころか、ほんとうは教会員へ語るためのものではないか、とすら感じるのであった。
 もう少し言い足すならば、洗礼を受けていない人へ説教することによって、教会が変わっていく、ということが一番の着眼点なのではないかと思う。
 たしかにこれは、説教をする側の視点から描かれる本である。章立てごとに、著者の触れたいポイントが語られ、説明され、そしてそれに見合うような説教が実例として掲載される。だが、説教の仕方を教えるというようなものでもない。誰を対象にしているか、それほど明確でないという意味では、やや不思議な本なのである。
 その不思議さは、訳者が、訳して「楽しかった」と漏らしているところにもうかがえる。この気持ちは、分かるような気がする。読んで楽しかったのだ。そして、少し切なく、酸っぱく、また、心に響き、心を刺すものがあった。
 本のテーマは、「はじめに」で触れられた、ある「とんでもない」女性が教会に導かれた話で示される。宣教がうまくゆかず信者が減っているアメリカの実情をもっと嘆くべきだという著者の視点はともかくとして、ふとした偶然から、さらにいえば間違いから、一人の女性が教会に来る。教会にはふさわしからぬような生活の中にある女性であったが、そこから教会が変わっていく。牧師としての著者自身が、そこから変えられていく。本は、最後まで彼女のことを忘れない。彼女への賛辞、感謝の言葉ばかりだ。そこに福音があった、そこに教会の支えが生まれたというわけだ。
 説教は、短い聖書の箇所から行われる。釈義は薄いように見えるが、必ずしもそうではない。短いから聞く方も集中できるのだろうが、そのごく小さな一言の意味が、なんとはなしに理解しているものとは全然違うものとして語られていく。有り体な解釈で、道徳的な教えを告げる、といった説教ではない。むしろ、神の言葉は、私たちの常識を打ち破り、介入してくるというのだ。
 そうではなく、福音は力をなくすときに、道徳の教えに成り下がってしまうのだ、とも言う。つまり、聖書は道徳を説くようなものではないはずだ。いつの間にか馴らされていき、数万人の信徒の減少で済んだなどという言葉の中に、数万人の死体の幻を見る著者であるゆえに、神の言葉はそんなものではない、私たちを根底から変える力を持っているし、持たなければならないと力説する。しかし感情的にではない。細くかすかに響く神の声は、私たちの常識や思い込みの中に、さらに言えば私たちの歴史の中に、どこか暴力的に介入する。私たちは揺すぶられ、揺り動かされる。洗礼を受けた者が、慣れきったぬるま湯で違う方向に泳いでいた自分に気付かされる。まるで初めて福音に触れたかのように、神のほうに向き直る。
 この体験は、お読み下さり、直に経験されるのがよいかと思う。ひとつひとつの説教に、動かされないというのは、よほど卓越した人か、鈍感な人かのどちらかであろう。
 もちろん、著者自身述べているように、アメリカのかなりの勢力の教会側は、著者の考えに大いに反対を示すという情況もある。著者は教会が生きて働くことを大きな根拠にして語るのだが、その強調を曲げて理解すると、いくらでも非難ができるのは確かだろうと思う。しかし、その基本には、一人ひとりが揺り動かされる神の介入があるというその考えは、説教の中に確かに、その力を隠し持っていると感じる。
 聖書をどのように読めばよいのか。説教者ばかりではない、信ずると思う人は誰でも、この本から学び、感ずるところがあるだろう。聖書から神の言葉を聞く、などと私たちは言いながら、実に私たちの気に入るようにしか聖書を読んでいないものなのだ、ということに気づかされるだけでも、こうした本に出会う価値は十分にある。洗礼を受けた私もまた、変わる可能性をもたらされた一冊であった。




Takapan
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