本

『殉教』

ホンとの本

『殉教』
山本博文
光文社新書429
\819
2009.11

 サブタイトルは「日本人は何を信仰したか」となっている。帯には「なぜキリシタンは4千人も死んだのか?」とある。「キリスト教弾圧史──それは、日本がはじめて西欧と闘った記録」とも書いてある。こういうところに、出版社は実に気を遣う。このふれこみで、売れ行きが大いに変わるというものだ。これ次第で、ふと本を手にとってしまうということもあるからだ。
 さて、桃山時代から江戸時代初期にかけて、日本では、キリシタンの迫害が続くこととなった。歴史の授業の中で、尤もらしくその辺りの事情が説明されるわけだが、人間の精神史がそれほど簡単に語り尽くされるはずもない。だがまた、当時の人が存命するわけではないのだから、どの資料からどれを信頼して歴史を組み立てていくことができるのか、いろいろ可能性があるのかもしれない。
 著者は、クリスチャンではない。歴史家である。特に、武士の殉死や切腹などに造詣が深い。このことと、キリシタンの殉教とを結び付けたのがこの本の成果である。クリスチャンの気持ちは想像するほかない著者だが、武士の心理は資料からもかなり近づくことができる。そこで、このキリシタンの殉教については、武士のあり方と重なるところが示されることになる。
 そもそも本のスタートは、遠藤周作の『沈黙』である。ここに登場する宣教師は、果たして当時の感覚であるのか、現代の視点で描かれているのかねという問いが立てられる。本の最後に、これは現代人の感覚である、と結論づける。それというのも、当時のキリシタンは、実に好んで喜んで、殉教に向かったということが論証されていくからである。
 持ち出される史料からの説明であるが、これが実に陰惨なものとなる。拷問の様子や人の死に方が次々と語られるからである。その拷問や磔を実施したのが日本人であることを思うと、今の世の中にもその日本人の血は流れているのではないか、という懸念が働く。そして私は、流れていると睨んでいる。
 それはともかく、著者は、秀吉の時代から家康、家忠、そして家光という流れの中で、海外との貿易との兼ね合いも含めて捉えられるキリシタンの迫害について、やがてその宗教的意味が中心へきて、貿易の問題もすべて宗教的な理由に基づいて、迫害がなされていく様を描いている。政治的経済的問題が本音で、宗教はその道具として扱われた、などということはない、というのである。
 好んで死を求めるキリシタンたち。殉教は神の大いなる祝福が約束されている。だから迫害を恐れはしない。そんな当時のキリシタンたちの姿が描かれる。果たして私たちは今、それほどの信仰をもっているだろうか。問われるような気がした。
 その視点からすれば、天草島原一揆はむしろ異様である。殉教を理想とし、天国への道としていく無抵抗なキリシタンたちと比べ、島原の場合はあまりにも戦い過ぎている。著者はそこで、天草四郎というカリスマと終末論が関わってそうなったと見ている。
 聖遺物信仰という、聞いただけでもおぞましい当時の習性のようなもの、あるいはそれは西欧でも同じであったという点など、熱心さのあまり今の私たちからすればとんでもないことがなされていたことも知る。
 このようにして、日本人の武士道に対する思いがいよいよ強く響いてくることになるのだが、真面目な日本人が、いとも簡単に心変わりする様も描いている。これほどの殉教者を出したというのは、世界的に見ても希有なのだという。そこに、潔く散る武士の精神を重ねていくことで、読者に納得しやすい展開を提示することができたように見える。
 小さな本であるが、内容が濃く、また多くの人の命がこめられているような気がする本であった。




Takapan
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