本

『殉教者』

ホンとの本

『殉教者』
加賀乙彦
講談社
\1850+
2016.4.

 ペトロ岐部カスイは、日本人の司祭。大分で生まれ信仰をもったが、キリシタン追放令でマカオに逃れる。そこで学ぶが司祭になれないと言われたことで自らローマを目指して旅をする。江戸時代の初期であることを考えると、驚異的な行動である。おそらく、エルサレムを歩いた日本人としては初めての人物であろうとされる。妨害を伴いながらも、その知的・人格的な姿にローマでイエズス会は司祭叙階を認めた。イエズス会士としてインドを目指す旅をしたが、日本帰国を希望する。すでに禁令と弾圧の嵐の中の日本であり、殉教を覚悟の入国であった。各地の隠れキリシタンを励まして歩くが、仙台にて密告に遭い捕まる。棄教を迫られるが屈せず、殉教の死を遂げる。
 この世界を渡り歩いた壮大な旅とその心の記録とを、カトリック作家としての加賀乙彦が描いた。一人称の語りで終始私たちを案内するが、その語りは、ただの心情吐露というわけでなく、歴史を刻み説くような目的があるように感じられた。つまり、読者のために、ひとつの教科書のような情報を提供しようとしているかのようであった。その意味で、リアルな一人称の物語とは言い難い面がある。しかし、展開や描写など、すべて文学的配慮に富んでおり、味わい深いものであることは疑いがない。
 本の目次の次に、地図がある。必ずしも歴史学的に確定しているのかどうか私は知らないが、少なくともこの物語を辿る上で、ここをちらちらと参照すると、いまどこにいるのか、何をしているのか、理解がしやすいかと思う。このようなガイドがある小説というのも、面白い。小説は基本的に時間の中の芸術であり、音楽と同じように、一方向に流れていく中で感じ取られていくものである。幾度も戻って調るようなことをしない前提で描かれているのが基本であるが、まるでテレビのdボタンを押すみたいに、何だったと思ったらこのように地図を参照して共に旅すると、自分の居場所が分かる。そう、この主人公の旅に、私たちも同行するのだ。その際、同様の信仰をもつことが望ましい。従って、クリスチャンでない人や、聖書に関心のない人は厳しい。ペトロ岐部と共に歩いていく。人々と出会う。潜伏のどきどきを感じながらその場面を乗り越えていく。
 すると、次第に気づく。この旅に、キリストが伴っているということに。ペトロ岐部にしても、その思いで旅をしていたのだろう。エルサレムの風景など、聖書の記述を思い起こしながら、その像を目の前の景色に重ねていく描写があるが、つねにすでに、主はここにいてくださっているのだ。私たちは自分で歩いているつもりでいながら、実は主が寄り添って歩いている。主がともにいてくださっている。自分が気づいていなくても、支えていてくださいる。
 旅をしよう。実際に外へ出なくても、知らない土地にぽつんと置かれなくても、私たちは本の中で旅をすることができる。なんと恵まれていることか。客観的にその地を眺めるばかりでなく、そこにいるものとして旅しよう。それができる。そこには主が共にいる。キリストが歩んでいる道を、歩く。淡々と描写されて進展する物語に、むしろ私たちは日々の時間を淡々と生きている自分と全く同じなのだという安心感をもつ。とくに、信仰の旅と考えるならば、信仰者にとり、大きな慰めともなるであろう。
 そのとき、このような殉教の時代は、現代と無縁のものでないということに、次第に気づいてくるであろう。




Takapan
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