本

『イチジクの木の下で・下巻』

ホンとの本

『イチジクの木の下で・下巻』
山浦玄嗣
イー・ピックス
\1600+
2015.12.

 これの上巻について、すでにこの欄でも取り上げている。そちらも参照して下さるとありがたい。2015年4月にこの上巻が発行されているので、久しぶりの下巻となる。『ガリラヤのイェシュー』という、ユニークな福音書翻訳を果たした著者である。その福音書に愛着をもつ理由が、この下巻で明らかになる。
 印象は、上巻のときと変わらない。というよりも、ますますその確信を深めたと言えるだろう。ギリシア語は恐らく日本語の辞書をそのまま取り上げているだけであろうし、日本語とそぐわないという理由で持ち出す日本語の国語辞典も、名だたる幾つかのものに限定されており、その権威をそのまま信用するだけというあたりで、変わることがない。
 確かに、日本語本来の意味からすればその表現は適切でない、という指摘は、傾聴に値する。「呪い」という言葉を、聖書に馴染んだ者は何も意識しなくなるが、日本語の「呪い」は悪意を以て臨むわけで、神の行為としてはそぐわないというのはその通りだ。但し、著者が言うように、呪いが自分より上位の存在に懸けているかどうかは不明であろう。しかし、国語辞典のある説明に囚われて、そういう解釈で押し通してしまう点は強引と言わざるをえない。
 しかし問題は、十字架と復活である。著者は、イエスを完全に人間のお友だちにしている。著者自身が理解できる人間像の中にイエスを押し込めている。自分だったらその立場でそのように考える、というのはもちろん想像してもよいことなのだが、イエスもそのように考えていた「はずだ」と決めつけることが多すぎる。また、聖書のある記述を根拠にして、イエスの心理はこうであるに「ちがいない」と断定していくのも問題である。それも、最初は当たり障りのないように「私は思う」と書いておきながら、いつしかそれが当然の前提・真理となって議論が展開していくことが度々あることに、果たして著者は気づいているだろうか。
 表向き出てきた語について、その日本語の意味を調べ、だからその日本語の意味からすれば元の意味はこうである、という断定は、一人のひとの感想としては許されないことではないにしても、聖書はそう言っているのだ、イエスはこう考えていたのだ、というふうに示すことは、単純に論理的に言っても誤りである。なにかしら自分が理解したとおりに聖書は読まれなければならない、というのが、この本の基本スタンスとなってしまったのが残念である。
 また、「アオリストというのは動詞の過去形のこと」などとあっさり言ってしまっている点も、著者のギリシア語理解の程度を露呈してしまっている。決してそんなことはないはずである。このレベルでの理解によって、随所で聖書の本文を新たに説くような営みをするには、あまりに遠慮がないように見える。自分の捉え方として、また「奨励」として話すことについて、私はそうした想像は大いにして戴いたらいいと考えている。だが、「聖書はそう言っているのだ」という姿勢を表したり、「イエスの心はこうであった」と決めるような言い方をしたりすることは、厳に慎まなければならないことであると私は思う。
 福音書の十字架と復活は、福音書記者のやはり中心的関心であるには違いない。それを、あまりに自分が理解できる「説明」の範囲の出来事にしてしまったことは、本書の最大の問題点である。人の理解の中に聖書を制限したのである。十字架と復活のあたりになると、しだいに「〜と思う」の表現が多くなる。そしていつしか、それが事実であるかのように記していく。自分の思ったことが、自分が説明できると思った意味が、聖書の語ろうとしたこと、神の意志のすべてとなっていくこの辺りは、見るに忍びない。こうして、十字架と復活を避けようとする解釈は、当然ではあるが、パウロを遠ざけようとする。パウロの解釈はもう行き詰まっている、と著者は断定する。残念なことだが、こうなると、もはやキリスト教とは言えなくなる。パウロの焦点だけがキリスト教のすべてではない、という意見が近年あるのは確かだ。また、その意見には意義があることも私は理解する。だが、パウロを消してしまおうとする著者の態度は、極端である。
 読めば、著者の「罪」という理解が、どうも聖書とは違う。自分の罪のために主イエスが十字架にかけられたのだ、などと思う人はわずかであり、普通の人はそうは思わない、と記していることが、その実例である。なんとかその身代わりに応えるために努力しなければならない、という、かつてのカトリックの意見とされたものが、色濃く影響しているのかもしれない。しかし、原罪が遺伝するはずなどないから、理不尽で意味がない、というように、なるべく罪などが人の中にはないのが本当だ、というふうに考えたい心理が伝わってくるので、カトリックがどうとかいう問題ではないのはもちろんである。
 こうなると、罪の贖いということも、パウロがてんかんや精神の許容範囲を破壊したことなどからたどりついた発想なのだ、というような記述で説明されてしまう。贖罪などでは罪は消えない、というように考えているように見える点など、根本的な問題が潜んでいるために、せっかくのお勉強が、悲しい本となってしまったのではないか、というのが、読後感である。




Takapan
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