本

『祈り』

ホンとの本

『祈り』
奥村一郎
女子パウロ会
\756+
2015.4.

 私はhontoの電子書籍でこれを購入して読んだが、kindleでは700円で読めるようだ。時期的には同時に提供されている。
 カトリックはカルメル会の司祭であった。2014年に召天なさっているのであるが、長いことカトリックの精神的な支えとなっていた。とくにその「祈り」についての深い思索には驚嘆すべきところ、学ぶべきところが多々ある。
 こうなると、カトリックもプロテスタントもない。
 日常の中でのふとした風景、しかしそこに意味を読み込む繊細な心があるときに、なんと景色は美しく見えることか。また、自己の貧しさを見てしまうことか。それは絶望には至らない。なぜなら、神の光に包まれているからだ。それを、抽象的な、自分とは関係の薄い世界の出来事として描くようなことをせず、つねに自分に接したものとして捉える。  そこに、神からの言葉を聞く祈りというものが生じる。自分からの願いを献げる、それはそれでよいだろう。しかし、祈りの本質は聞くことにある。その姿勢に落ち着いたとき、霊性が研ぎ澄まされていく。
 まことに、読んでいくだけで、心が浄化されていくようだ。
 当初、1974年に出版されたものがこうして電子書籍となったが、ようやく電子書籍が広く行き渡るようになりかけている今、黙想の原点のような本書が読まれていくことはたいへん望ましい。
 私がひとつ、深く肯いた点をひとつだけ挙げる。以下は、本書の叙述を基にして、私が個人的に思い描いた情景である。本書そのものではない。
 神よ、と願いを立て、自分のために神が何かしてくださるかのように、神を引き寄せたくなる思いを抱くことがあるだろう。そして、神は真実であるから、実際に神が近づいてくるという感覚をもつこともあると思う。しかし、実態は違うのだ。小舟で湖を漂う私が、行き場を見失い困り果てているとき、ふと、陸ないし港と小舟が綱でつながれていることに気づく。あるいは、投げかけた綱が、陸と結びついたことを知る。私は助かるために、その綱を手繰り寄せる。小舟は陸に近づいていく。小舟の私から見れば、みるみる陸が近づいてくるようにしか見えないのであるが、実情としては、小舟が陸に引き寄せられているに過ぎない。私が陸を動かしているのではない、私のほうが動いて、陸に近づけられているのだ。
 何を言わんとしているか、お分かりのことだろうと思う。神との間の祈りの綱により、人は神が自分に近づいた、神が動いた、と錯覚することがある。だが実情はそうではない。自分が動いて神に近づくのだ。否、自分が神に寄せられるに値するようなものに、変えられていく。神が変わるのではない、自分が変わるのだ。また、変わらなければならないし、神により変えられていくのである。これが祈りのなせる業なのだ。




Takapan
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