本

『祈りの精神』

ホンとの本

『祈りの精神』
P.T.フォーサイス
斉藤剛毅訳
ヨルダン社
\800+
1969.9.

 偶々入手したのが古い版であったというだけであり、これは現在新しい形で購入することができる。また、別の訳者によるものも出ており、より新しい感覚で訳出されているのではないかと期待できる。
 いずれにしても、これは祈りについての名著である。神学者や説教者などが、祈りについての本を著している。カトリックの方々の祈りにはまたプロテスタントの私には新鮮な黙想のすばらしさを覚えるものがあるが、神と差し向かいで闘う場合もあるという意味での祈りについては、また違うものを感じる。そこへいくとこのフォーサイスの祈りについてひたすら綴る本書は、格闘という言葉がぴったりくるような迫力がある。
 まさか神と格闘するというのはけしからんという意見もあるかもしれない。しかし問題は、神と向き合うことである。そもそも神の方を向くことなしには、祈りはなしえない。また、そもそも祈りとは何かということを問う場合にも、神と相対する場面でなければ、およそ祈りなどとは呼べないものとなってしまうであろう。その辺り、願い事をすることを祈りと思う程度では、このキリスト教の真剣な祈りには全く親しみを覚えないことであろう。
 ヨブは神から確かに叱責を受けはした。だが、ヨブはそれでも祝福されるに至った。また、その祈りそのものが不謹慎だなどという指摘を神がしたとは思えない。ヨブが神に対して真摯に向き合い、叫んだことについて、神は応えを出したのである。預言者の祈りも旧約聖書に多く載せられている。どれも、お利口さんの上品な祈りなどではない。
 祈りのねばり強さ、途絶えぬ祈り、とりなしにおける真剣さ、時を見据えた祈りへのセンス、とにかく激しいものを感じざるをえない精神である。だが、それだからこそ、精神つまりスピリットであると言える。安穏としたおとなしさで祈られるものではないはずなのだ。イエスを見よ。血が滴るほどにまで祈ったではないか。また、人から離れて朝早くから隠れて祈っていたではないか。祈りによらねば癒しはないと言い切るほどの力は、祈りの中からしか出せないことばであろう。イエスの祈りあればこそ、救いの業もあった。また、だからこそ弟子たちは祈りを教えてほしいと願い出たのだ。
 決して古びていない。50年を数えようが、人の精神がそれくらいの時間で変質するわけではない。まして神が変わるわけではない。当時の最先端の技術を描いた本は、その時には新しいようであるが、時が経てば古くさいことを露呈した陳腐なものとなりかねない。そこへいくとこれは、変わらない人間の精神が見事に描かれており、人間と神との交わりとは何か、どうあるべきなのかが、聖書を根拠に書き留められている。そう簡単に内容が通用しなくなるはずがない。
 そういうわけで、折に触れ見返していたい本となった。自分の祈り、また祈る心が荒んでいないか、誤った方向に進もうとしていないか、点検するためにも、そしてまた、弱った祈りの力を奮い立たせるためにも。だがそれは、自分で自分を励ますことではない。なによりも、祈ることでしか祈りは育たないと言い切った著書の本である。この本を友として、祈りの深みと喜びの中へと飛び込んでいこうではないか。そうした体験を確実に呼び込む本となっており、それはきっと当面変わることがないだろうと思われる。新しい版でも、元の版でも、あるいは古書して入手するもよし、一度、取り憑かれたように浸るとよいと思う。あらゆる理屈は、その後祈ってから、始めればよいのではないだろうか。




Takapan
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