本

『祈りの心』

ホンとの本

『祈りの心』
奥村一郎
海竜社
\1600+
2001.11.

 臨済禅からキリスト教に入り、カトリック司祭となったという著者。この本にも、かなり禅の内容に立ち入ったことが書かれている。どうかすると、これは禅の解説ではないか、と思われるほどだ。
 だが、なんといっても、最初のほうの随想がいい。まずは、「幼子に学ぶ」と章が名づけられており、子どもに関する観察がレポートされている。あまりに素敵で、また時に涙がつい出てしまうときもあり、しばらく心が揺すぶられた。ここで例を出してしまわないようにしよう。無邪気な子どもの心の中に、神が宿る様子を見守るような眼差し。これは、どこか人の善性のようなものをおおらかに見る人のなすわざであるし、カトリックにはそういう眼差しが比較的多いように見受けられるのは、偏見だろうか。それは決して悪いことではない。神はあらゆるところにその姿を現す。とくに、幼子の唇を通して神は賛美され、またそこに現れるということがきっとあるだろう。
 教理は教理。しかし、あらゆる人の中に普遍的にはたらく神の愛というものを信頼することもまた、赦された知恵であるのではないかと感じる。というより、この本はそういう世界を描いているように思う。
 それが、禅の言葉と重ねられて、かつての日本の人々の心の中にも、同じ神がはたらきかけていたのではないかと思わせるような流れを本書は作る。人の誠実さ、神の真実が、創造された世界の中に、ちゃんとあるのだという姿勢は、プロテスタントの私も見習いたいところである。少なくとも、ひとに対してはそのようでありたい。だが、自分に対しては、少しスタンスが変わってくるだろう。厳しくするのがよいと単純化するつもりはないが、自惚れるようなことがないようにしたいのは当然である。
 そして、プロテスタントが敵わないなあと思うのは、カトリックを深めた方々の、祈りである。この本のテーマはその祈りである。禅定に重ねられもするところがこの著者の特徴であるが、そうでなくても、祈りの実際上の姿勢を問題にしたり、瞑想の方法として道具を工夫したり、それはそれは細かく具体的な指摘が用意される。祈りの姿勢はどうあるべきか、という素朴な問いについても、実のところ、祈りのための本で、殆ど見かけない話題ではないだろうか。
 祈りについては、いろいろとどうしたらよいか、思案することもある。本書がまさにそういう人の開く本であるというのも本当だろうが、著者の本心としては、祈りについて自分を評価するようなことはしてはならない、と断言する。その言葉がとくに心に残った。つまり、「祈りは、人間の営みではなく、人間の中における神の営みだからである」とある部分であった。
 祈れない、どう祈る、そうした疑問を表に出す必要はない。神が、私の中でなしてくださる、それが祈りなのである。ああ、とても清々しい。カトリックというと、祈祷文を棒読みしているのではないか、などというイメージをもつ人もいるものだが、そうした祈りの典型を利用する教会の人々が、実に深い祈りのための時間と方法を有しているというのが現実なのだ。口先だけで祈るのではないのだということがよく分かる。祈りについては、カトリックの研ぎ澄まされた感覚を学ぶことはよいことではないかとつくづく思う。




Takapan
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