本

『小説 イエスの復活』

ホンとの本

『小説 イエスの復活』
エリック=エマニュエル・シュミット
阪田由美子訳
NHK出版
\1680
2001.10

 NHKの中にもクリスチャンがいるという話があり、番組のどこかにそういう祈りをこめて制作しているという話も聞いたことがある。
 しかし、NHKの出版部では、ちょっとどうかなと思われる興味本位の聖書ものがいくつも売り出されている事実もある。その中でこの本は、まだ悪くない部類に入るだろうと思われる。
 フランスの劇作家による、比較的新しい作品。無神論の家庭に育ちながら、神への関心を抱き学んだのだという。
 聖書から、こうした作品を仕立てていく心理というか、こういうのを書いてみたいという気持ちは、私はよく理解できる。そして、この著者のような才覚はないけれども、私ももっと書いてみたいという衝動に駆られるときがある。
 それは、自分の一つの信仰告白であり、聖書から学んだことのある種の披露であるからだ。こんなふうに聖書を読んでみたのですが、如何ですか、という気持ちもそこにある。
 この本は、二部構成になっている。前半が、イエスの視点からイエスの一人称で、ゲッセマネの逮捕までを描く。後半が、ピラトの視点で、親愛なるティトゥスに宛てた手紙形式で、起こったことや心理を描くという形式になっている。
 ティトゥスというのは、おそらく後にエルサレムを廃墟にするローマ軍の将軍ではないかと思うが、手紙という形により、表に出てこないピラトの内心の動きまでが細かく表現されている。イエスの視点は、大きくこれが大胆な実験であったかと思うが、自らをメシアだと意識することなく、それでもなお十字架を目指して歩み続けるしかない男として、巧みに描いている。これをイエスの実像だと考えてもらうのも問題だが、なかなか面白い視点だと思う。そのゆえにこそ、この本がフランスでヒットしたのだろう。
 元来署名は『ピラトの福音書』である。ピラトの名は、主を十字架刑に決定したということで、歴史上最大級の汚名を着せられている。いまなお教会では毎週のように、信仰告白(使徒信条)の中で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」と繰り返すのである。しかしこの書では、ピラトの妻クラウディアが復活のイエスにも出会いクリスチャンになっていく。ピラトは合理的に復活がありえないと模索しつつ、次第に妻の影響もあり信仰の扉に近づけられていく。物語の最後は、ピラトがやがてキリスト者となっていくことを暗示している。
 繰り返すが、ここにあるイエス像にこだわりそれが真実であると思いこんでいくのは危険であるが、こうしたものを楽しむ余裕のある人は、健全に楽しむこともできることだろう。ただ礼拝で牧師が説明するイエス像だけを信用している人は、こうした作品に適度に触れていくのがよいと思う。どこの教会の牧師とて、聖書をどのくらい理解しているか、学んでいるか、あるいは学ぼうとしているか、それは大したことがない場合が多い。聖書原文に目を通すことなく、特定の日本語訳からだけ、縦横にイメージを膨らませて自己流の解釈をしているような人も、少なくないものと思われる。そうした、私に言わせれば無責任な聖書メッセージに浸るよりは、こうした優れた小説をも味わって、様々なインスピレーションを得たほうが、心の糧になるのではないかと思われる。
 実は、私と同じ考えの部分があって、とくに印象に残った言葉がある。妻クラウディアが夫ピラトに、終わりから数頁のところで訴える。「疑うのと信じるのは同じことよ、ピラト。無関心だけが神を否定することになるの」
 マザー・テレサの有名な言葉が下敷きになっているかもしれない。が、疑うことと信じることとを同じ次元のものと見たのは、最近私が礼拝で語ったことと、全く同じである。疑うというのは、信仰から遠いものではないのである。むしろ、すでに信じているからこそ、疑うのである。ピラトはこうして、クリスチャンへと変えられていこうとしていた。




Takapan
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