本

『報道被害』

ホンとの本

『報道被害』
梓澤和幸
岩波新書1060
\777
2007.1

 なにもワイドショーに限ったことではないが、世間の関心を惹くような事件では特に、取材のあり方にいつも哀しみを覚える者の一人ではある。
 私たちは、テレビという箱の中に映る世間でのごたごたを、水晶玉を覗くようなやり方で見ている。たとえ遺族へ次々とマイクが突きつけられても、視聴者には関係がない、と見なしている。
 だが、少しばかりの想像力を導入すると、たぶん違った印象で見えてくるに違いない。
 弁護士として、報道被害に遭った方々を助ける仕事を多くしてきた著者が、いくつかのよく知られたいくつかのケースを詳述すると共に、報道被害の原因はどういうところにあるのか、具体的にどうすれば被害を防ぐことができるか、などを追究している。
 小さな新書に過ぎないが、その内容と重さは計り知れない。
 松本市のサリン事件は、その大きな代表とされている。メディアがこぞって書き連ねると、誰もが、それが事実だと思ってしまう。
 ひとたび疑われた人は、仕事も信用も何もかもを失ってしまう。
 本書には、私に関係の深い、福岡市の一家四人殺害事件も取り上げられている。その親族が、さも犯行に関わったかのように、週刊誌などが書いたのである。これは警察発表も何もないところであったので、かなりの賠償判決が下りた。だが、心の面での謝罪は行われていないという。
 人間らしい心を失うのが、報道機関なのかもしれない。現場の記者たちの打ちにも、被害者遺族に「いまのお気持ちは?」などと訊くことが本当は嫌なのだという声もある。それは人間らしい心だろう。だが、仕事として、それを訊いてこいということが当たり前のように命令されるとすれば、報道というものは実に機械的で心を失ったことをやっていることになる。
 産む機械発言は結局うやむやになっていっているが、官僚を含めてまさに世の組織が機械となっている点で、女性は日々、機械を産んでいることになるのかもしれないと思うと、ぞっとする。
 この本の事例を知るにつれ、怒りがこみ上げてくると同時に、いつ自分がその被害者になるかもしれないという恐れも覚えた。いや、多分にそれとは逆であろう。自分はつねに、その加害者となっているのである。私たちが何かの事件を知っているということで、メディアは、「人々が知りたがっているので」という理由付けを行っているのである。私たちが事件のプライバシーに関心を及ぼさないなら、そして、何か疑われた人が身近にいたとして、その人の味方になることができ、その人や家族などの職業や学校生活などに全く迷惑をかけないように努めるならば、ようやく加害者の域から外れることになるかもしれないけれど。
 
 なお、本日(2007.3.8)、福岡地裁において、魏(ぎぎ)被告に、2審も死刑となる判決が下された。空しく、悲しい思いが走る。




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