本

『火の神話学』

ホンとの本

『火の神話学』
大塚信一
平凡社
\2520
2011.10.

 なかなか堅い本である。
 副題が「ロウソクから核の火まで」とある。それで、てっきり大震災と原子力発電所の事故のことが中心、あるいは動機なのかと最初思ってしまった。だがそうではないらしい。つまり、出版が2011年10月であっても、あの3月の時点ですでに第六章の原稿を作成中であったのだというわけで、震災を発端としているわけではなく、さらにそれだけ準備を重ねて慎重に書かれた本だということである。著者の長きにわたる調査や考えがここに凝縮されていることになるのであり、充実した一冊であると言うことができる。
 それは、火という問題を、人類の文明の中で捉えることなのであるが、何かしら遺跡や発掘の中で、こういうことが語られることが常であったことを思うと、そうでない手法を使うこの本も、確かにこれは真実により近いのだと思わせることがあるのに気づかされた。というのは、科学的に調査したという方法をとったとしても、しょせん火などという、人類にとりどれほど初期のものか分からず、また痕跡を留めにくいものであり、そしてまたどこか思想的に人間を変えてきたであろう事柄にあっては、へたに遺跡をもとに想像をめぐらすのは、却って単なるその当事者の思いこみや空想に走ってしまうことになろうからである。
 むしろ、文献の意義は大きい。ことに、神話には必ずこの火が登場していくるが、それは人類が当初火というものをどのように見ていたか、扱っていたかということを、物的遺跡よりもなおリアルに遺しているものだと言える。これはよい着眼点だと感じ入った。
 とはいえ、この原子力発電所の事故は、火というものに新たな眼差しを、あるいはかつてもっていたであるかもしれないが忘れていた火への眼差しを、再確認させるものだとも言える。著者も言う。この深刻な事故のときにしか火を思い出さないようになってしまったら、不幸だ、と。火は、人間が自ら抑制できない衝動の象徴にほかならず、人間存在の底知れぬ虚無をかいま見せるものだからだ、としている。それでも同時に火は、人間の精神性とその高貴さを表現するものでもある、と言っている。そしてそこに、家族や社会といった共同体の形成を促す作用を感じている。それが崩壊しつつある現代に、火に注目する意義があるのではないか、というのだ。
 そんな動機である。しかし、著者のその意図とは裏腹に、ここに取り上げられていく話題は、ただそれだけでも実に興味深い。
 料理という方法の重視。それは火を前提としているが、これが人類を決定的に特徴づけることになったという指摘があった。ずいぶん古い時代のありさまを、発掘からつないでいく。これだけなら、科学者と同じかもしれないが、これもまた押さえておくべき事柄でもある。その上で、日本の神話、世界の神話から、火についての扱いを念入りに見ていく。
 日本神話における、イザナギとイザナミにまつわる火のいわば悲劇的な扱いは有名である。最近はこうした昔話さえ教養の部類に入らなくなっているのか、知らないあるいは知らされないことが多いが、批判的観点をもつためにも、知るべきことは知るべきであると思う。何も知らない者が、後に急にこれを知り、のめりこんでいく悪夢を、私たちは宗教団体の殺人事件から学んだのではなかっただろうか。
 それはそうと、やはり火ということで世界に大きく影響を与えた神話は、プロメテウスである。これは、今回の福島の事故でも某新聞が論評に用いた題材であった。神から奪った人間の火というものが何をもたらしたのかというものであるが、著者はこの火についてはやはり特別扱いをして述べている。
 しかし、それを唯一の火の思想だとはしない。文明の中での取り扱いをそこからもまた様々に扱う。そして私たち日本人にとり生活感覚で考えやすい、炉やいろりといったことについて、その象徴性を考察していく。そこには何らかの特別な意味合いがあったのだと見つめていく。
 あまり大きくは取り上げられていないが、よく言われるのは、キャンプファイヤーである。夏の夜、キャンプの場では必ず火が焚かれる。あれは、電灯やサーチライトではあってはならない。炎である。火である。炎の揺らぎは、どこか火とを原始の営みの中に引き戻すかのようであるが、あの火を皆で見つめることにより、一つの思いを育んでいくということがある。揺らぐ炎の向こうに見える人を、愛おしく思えるようになることがある。神秘的な感覚を抱くことがある。
 だからまた、宗教でもロウソクや炎は大切な道具となる。クリスマスのキャンドルサービスもあながち無関係ではないことだろう。いや、宗教とくれば、ゾロアスター教を避けて通ることはできない。これはまさに拝火教とさえ言われるほど、火とつながりがあるのだが、著者は、彼らはなにも火を神として拝んでいたのではない、と指摘する。火を通して神を、というところをはっきりと見せる。だからまた、火は普遍的に、人間たちへ告げるメッセージをもつことになるのかもしれない。
 もちろん、旧約聖書での火の扱いにも一部触れられている。モーセの柴は神による召しのために重要な役割を果たした。焼き尽くす火は神の審判を表した。神の作用として極めて大きな効果をもたらしていたのだ。ギデオンの松明もまた、火による灯りという側面のために意義があったことだろう。
 ところがこれが近年どうなったか。炎が担っていた灯りという点では、ランプまではまだよかったが、ついに電気の照明となり、火とはもう呼べないものが私たちを照らすようになってしまった。火ではない光により文明は進歩して現代の成熟を導いた。この延長に、原子力の火というものがあったと言えるのだ。
 最後には、芸術という捉え方から火を総合的に捉えて、著者は自分の見解をもたらす。自然なる火が、自然ならぬ文化を築いた点を忘れてはいけない。これはパラドックスとも言えるものなのだが、これを蔑ろにしたところに、問題があるというのである。私たちは火を飼い馴らしたつもりでいる。だがそれは人工物ではなく、自然の力を秘めたものなのだ。果たして原子の火は、私たちが考えているほどに手なずけたものであったのかどうか。もはや自然ではない、とでも言いたげに私たちが、火のことを意識から消し去るような扱いをしてきたことに、重大な落とし穴が、欠陥が、あったのではないだろうか。
 著者は、元岩波書店社長である。岩波は、震災後、徹底して原子力発電所を批判し続けている。それは実は震災以前からなのであるが、この著者の社長時代からその方向性はあったのだろう。ただ、この津波による事故が起こったから急にそれを言い始めたのではないことだけは確かである。それまでは興味も持たず、いいだけその電力を利用しておいて、ひとたび事故が起きたから、それは悪そのもので、そんなものを作った者も悪魔だと叫び出すような、そして自ら電力の深刻な問題には協力したがらず、経済の落ち込みを容認できないでいるような、感情的で短絡的な人々が少なからずいるこの世情で、人類文明という視点で落ち着いた研究を続けてきた著者の語る言葉は重い。ぜひとも傾聴したいところである。




Takapan
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