本

『社会的排除』

ホンとの本

『社会的排除』
岩田正美
有斐閣
\1575
2008.12

 ありそうでないタイプの本ではないかと思った。サブタイトルは「参加の欠如・不確かな帰属」という。有斐閣らしいのか、社会学のテキストとしても使えることだろう。とくに巻末の、さらなる学習のための文献ガイドなどは、大学生のために実に適切なアドバイスとなっていると思われる。
 しかし、学問のための学問が社会学であるとも思われない。著者の行動は、かなり具体的である。それでいて、理論を外すことのないように注意深く冷静に事実が扱われている。門外漢の私には、その理論のすべてがすんなり理解できるものではなかったが、いわゆる弱者がどのように排除されているのかという点について、様々なケースを感じとることができたように思う。
 ともすれば、ホームレス問題に対しても、感情的に処理したくなることがある。それはもちろん悪くない。現実に目の前にいる飢えた人を助けるにはどうするか、必ず考えなければならないし、行動しなければならないのだ。しかしながら、それだけでは、さらなるホームレスが溢れている世の中にさえなりかねない事情を改善することはできない。今困難の中にいる人を助ける行動力と共に、さらに困難な人を増やさないために、そして今困難な人がいずれそこから脱出していけるように、環境を整え制度を設けていくにはどうすればよいのか、実行するのでなければならない。
 そのためにも、概念というものは、役に立つ。それまで見えてこなかったものを、見えてくるようにさせてくれる。人間の思考の枠組みを設定することに成功すると、問題の解決に役立つものである。そのために、ここで今「排除」という概念が中心に置かれる。
 貧困だなんだと言いながらも、私たちは差別を受ける側を、やはり本人の問題として捉えている向きがある。考える自分が、どこか安全な立場にいて、そこから低いところを眺めているかのような錯覚である。ひょっと、何かの原因で生活軸が壊れ、放り出されたとき、その人は、まさに健全な顔をしている私たち市民によって、排除されていく構造があるのではないか。つまり、何もしていませんと言っている私たち自身が、意識せずして、排除することを平気で行っているということはないだろうか。そんなことを、冒頭で考えさせてくれる。こうなると、いじめと同様である。自分では、いじめているつもりなどないものだから、自分は何もしていない、と思いこんでいる。そうではない。極端に言えば、何もしないというそのことによって、いじめる側に加担しているということもある。私たちは、知らず識らず、排除する側に回っている。
 そうではない、と言うためには、排除と反対の概念を推進するように積極的に関わることである。著者によれば、この「排除」の対概念は「包摂」というのであるそうだ。社会的包摂により、どういう解決の道が拓かれうるのか、本の終わりのほうで希望が見出されていく。それが唯一の道であるなどと著者は言わない。むしろ、まだ何も分からないのだ、と告白する。そうだろう。その結論は、著者一人ではなくて、読者そして社会の中で生きる私たち一人一人が悉く自分の問題として捉えて考えて、何らかの行動を勇気をもって選び取ることによって初めて、生きたものになるであろうから。
 私は個人的に、これは経済的なあるいは市民的な問題に留まる構造ではないと感じた。精神的に排除感を受けた者が、大きな事件を起こすなどしている。また、見えない形で、心が路頭に迷っている。一定の基準の形で社会がこの形でなければ参加を認めない、としているせいではないかとも思われるが、果たしてそれが真に普遍的な形態であると言えるのかどうか、それは私には怪しいように見える。クリスチャンは、そんな視点でこの本から学ぶこともあっていい。そんなふうにも、思えた。




Takapan
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