本

『偶然とは何か』

ホンとの本

『偶然とは何か』
竹内啓
岩波新書1269
\756
2010.9.

 サブタイトルに「その積極的意味」とある。
 初めのほうは、非常に原理的な部分で、偶然が取り扱われる。必然との対比、あるいは必然の消極的意味から、偶然を捉えるというところから始まっているので、ここで読者は、実はそのような捉え方ではないものを筆者が用意しているであろうことを予感する。つまり、何らかの否定の方向へこの概念が用いられるのは、実にもったいないことなのである。
 筆者は、統計学並びに経済学の専門。ここには、数理統計学の手法が巧みに取り扱われている。従って、話はすぐに、確率論に移る。そもそも確率とは何か。確率の問題は心理的な問題とどう関わり、根拠づけられるのか。この確率は、統計的に用いられることによって、現実の問題に活かされていくことは間違いない。現実における確率の意味が積極的に調べられていく。
 そこで、生物の進化という問題と、歴史的偶然性の意味が検証されることになる。やがて、人間の自由意志の問題が浮かび上がってくる。しかし、こうしたことを哲学的に論じるつもりは筆者にはなく、ましてや宗教的な意味づけを行おうとするつもりもない。あくまでも、数理的な確率と共に、しかしながら空理空論や現実味のない計算で終わるというものではなく、どこか肉なる温かみをもった考え方へと足を踏み入れていく。ここに「心」だの「自分」だの、或る意味で定義できていないままの概念を用いて論が展開していくが、その緩やかさというのは、一つの信念へ向かっていくようでもある。
 運や不運を私たちは覚える一方、偶然であるからこそ楽しいと感ずることを数多く有している。2010年のワールドカップで話題になったタコのパウル君までも持ち出されて、大数の法則の適用について検討されるほどなのであるが、その法則が、ここへきて採用できない時代に変わりつつあるのではないかと指摘する。たとえば原子力の利用についてのミスは、確率的なものとして言明してはならず、それは起こってはならないことである、というのである。巨大な天体の地球への激突にしては、ミスではないにしろ、その確率はゼロと見なされていくべきであるなどと言う。どうやら、とたんに数理的な理由だけで私たちが生きているのではないというような世界に入ってきたようである。
 尽きるところ、どこか私たちの常識的な理解に落ち着いていくようでもある。そうして、そのようにして辺りを包む偶然なるものと、私たちはどのようにして折り合っていけばよいのかについても、まだこれからの課題であるのだと結んでいく。
 この本では検討されていないが、神の必然という考え方があり、決定論という形で取り扱われることがキリスト教世界にずっとあった。機械仕掛けの神ではない、という反論もあれば、聖書を巧みに解釈して、救いが決定されているという信仰もまた必要があって生まれたものであった。しかし、神は最初の創造ですべてを終えてしまったわけではないだろう。それならば、本書でも指摘しているように、ある瞬間のデータが与えられることによって、今後の世界のすべてを確定していけるなどというような、奇妙な考えが支配的になっていくことにもなりかねない。そうではない。神は、歴史の中に介入する。神は今の私たちの世界にも働きかけ、働き続けるのである。
 こうした神学的な議論が加わると、この数理統計的な理解に基づく偶然観が、どのように進展していくのか、そんな楽しみもふと感じたのであった。




Takapan
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