本

『誤解学』

ホンとの本

『誤解学』
西成活裕
新潮選書
\1200+
2014.5.

 聞きなれないタイトルである。日常の中で不可解な出来事のメカニズムを解明しようという試みは、たとえば「失敗学」というものが出て耳目を集めた。
 そもそも哲学の世界でも、そのように、現代的に説明を要する事象の背景や根拠を解明するというものがあったはずだ。現代哲学でそのような試みがなされている。その路線であると私は見ている。見た目は哲学ではないが、かつて哲学は科学と分離するものではなかった。今その手法が科学の手法に任されているという形であるが、たしかにこれは哲学的課題であると言える。失敗は何故起こるか、その分析をする。そのことにより、予防対策がなされうるかもしれない。
 著者は、そもそも「渋滞学」という名で、その研究成果を世に問うている。道路事情の中で渋滞が何故発生するのか。たんに車が多いから、ではない。少ない車でも車列の進行速度がやけに遅くなることがあるのだが、それは何故なのか。時にそれは心理的な理由にもよる。ちょっとした、前に詰めようとする一台の車のために、その後方でとてつもない渋滞かもたらされることさえあるというのだ。車間距離が広くても車の通行効率はよくないが、では狭ければよいのかというと、そんなことはない。狭いとすぐにブレーキをかける傾向が現れ、進行からすると逆効果なのであるという。
 こうした著者が、その渋滞研究の中で浮かび上がってきた問題、しかも考えようによってはさらに深い根底的な問題となりうる課題として意識されたものが、この「誤解」についてであるという。
 私たちは日常的に「誤解」という言葉を使う。誰もがその意味を了解していると思っている。だが、日常語であるということは、様々な状況で様々な意味合いで用いられているということであり、その分析は容易ではない。それを、いくつかのパターンに分類しようというのである。それは、記号論理的に、話し手と受け手、彼らの認識、真偽の実態に応じて、可能性を全部並べ、その中で実際的に起こる可能性はどれであるのか、どういう状況であるのか、を明らかにしていく。いかにも現代的な方法である。
 著者の着眼はそのような部門にあるが、実際的にその営みは専門的である。予め断ってあるように、本書の中央部はその記号論理の叙述があり、論を厳密に展開するためにも必要なものだが、退屈な読者はそこを読み飛ばしても差し支えないとも言えるだろう。専門家にとっても、あるいはその道に関心の深い人が論議を細かく見たいという場合には有用であるが、一般読者は、流し読みでも構わないと思われる。ただ、何も見ないというのは少しさみしい。どういう方向で話が展開するのかを把握するためにも、見ていくとよいであろう。
 ともかく、たんに著者の狭い視野や体験内に絞られる「誤解」のカタログではなく、起こり得るあらゆる「誤解」の可能性に言及しようとしているのだ、という点は了解しておく必要があるだろう。
 しかし、ある意味で期待を裏切るのであるが、誤解は避けることができないだろう、とも言う。結論が先にあるような気もするが、これは真実と思われる。人間世界から誤解を絶滅することはできない。ないとすれば、それはデジタルデータが抜かりなくコピーされる有り様の世界となり、ある意味でそこに「自由」は消滅するのであろう。本書にはこの「自由」の視点までは触れられていないが、哲学的・神学的な視野も含めると、そういうことになるのではないかと私は思った。
 著者が誤解の存在意義について最後に触れている。ここでは明らかにしないでおくことにする。読んでのお楽しみというわけだ。だが、それはひとつの仮説に過ぎない。いわば科学的な結論とはいえない。著者の見解が、これまた誤解を受ける可能性もあるわけだが、一般読者にとっては、そうでなければ面白くない。
 実際的な誤解を受け続けた著者の身の上話も面白いが、私から見て、まだ小さいうちであるかもしれない、と思う。だが、本論から外れるのであろうためにあまり深くは追及されていないにせよ、世間に起こる様々な事象、とくに報道やネット通信を通じて拡散する考え方や捉え方、あるいは空気というものについて、著者が多くを含み入れるような形で、「誤解」について検討しようとしていることは十分窺える。誰もが誤解を受けているだろう。誤解を与えてもいるはずなのだが、悲しいかな、自分でそれがなかなか認識できない。認識できない宿命はあるものの、自分が誤解を与えているかもしれない、という意識をもてるかどうかで、少しでも円満な、快い生き方ができるかどうかが変わってくる可能性は十分にあるといえよう。それは突き詰めれば、幸福を求めるということにもつながり、また同じ方向を見ていることになるだろう。
 誤解を必ずしも否定していない著者だと私は感じるが、自分本位の中に誤解が多々あることを思うと、能力的な限界はともかくとして、自分本位でないかどうかは、私たちは少しでも反省してみる必要があるだろうと思う。また、バベルの塔の逸話にあるような、言葉が通じなくなるという事象は、必ずしも言語の種類だけを語っているのではなくて、このように互いに誤解し合う人間のありさまを描いているのではないか、とも私はふと思うのであった。




Takapan
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