本

『疑似科学入門』

ホンとの本

『疑似科学入門』
池内了
岩波新書1131
\735
2008.4

 人の良心とはどういうものなのか、考えることがある。およそ人の心は本性的に善ではないと考える私であるが、善ではないと痛切に感じている人がいるという事実については、良心というものは存在するものだと固く信じているものである。
 この本には、そんな良心を覚えた。疑似科学という説明もたっぷりなされているが、とにかく、科学のように見せかけながら、あるいはさも科学的な考えに基づいているように思われながら、その実全くそういうものとは違うというものが世にはびこっていること、そしてそれがしばしば害悪をもたらすこと、あるいはもたらす潜在的な力を保持しつつ無害であるかのように振る舞ってもてはやされることすらあること、そんな危険性を、著者はなんとか正統に指摘したいと考えている。
 たとえば、超能力や一部の占い、そしてスピリチュアルなどというものがそれである。また、環境問題が話題になると、環境問題の虚偽を強く主張する声が起こり、だから環境問題など嘘っぱちである、という声が広まることがある。著者はそれを、たしかに一部その指摘は正しいことがあるかもしれないと認めつつも、だからといって全面的に環境問題に反対するというのは、自分の責任を軽くしたい心理としては理解しえても、免罪のための方策のように反対論をぶちまけることは、殆ど論外であるとして考えている。
「複雑系を逆手にとって問題を曖昧にし、地球環境問題は存在しないと言いくるめようとしている論は、人類の未来を考えようとしない点において、危険であると私は思っている」(147頁)と、著者は言っている。
 そのような場合、科学者にばかり責任をなすりつける一般の人々にも、批判の矢が向けられる。「誰かを犯人に仕立て上げてしまうと、自分の関与についていっさい感じなくなっているのは現代人の特徴かもしれない」(92頁)というのである。これは、たいそう福音的な叙述であるように私は感じられてならなかった。
 信仰についても、疑いのトマスという観点もクリスチャンにはある。しかし、教育上の問題として、「私が言いたいことは、『疑った上で納得すれば信じる』ということである。そうであれば、何を信じ、何が信じられないかの区別がつくだろう」(180頁)とあるように、著者は疑いもむしろ必要なひとつの段階であるというふうに捉えている。
 また、悪魔という呼称も登場する。
「『悪魔』で象徴されるものは、迷信、偏見、権威主義、社会的言説、悪法、しがらみなど、いわば非合理への誘惑であり、御信託を待つ心であり、自己決定できない弱さである」「神の愛のみを教えているだけでは、むしろ『悪魔』にしてやられるばかりになってしまうだろう。『悪魔』が存在することを意識し対抗策を身につけること、それが人類の歩みの歴史であり、そのために教育体制が整備・充実されてきたとも言える」(184頁)
「疑似科学も私たちを誘惑しようとする一つの『悪魔』である。私たちに『考えさせない』あるいは『考えることを放棄させる』のが『悪魔』の仕事であり、疑似科学は見事にその役割を果たしているからだ」(184-185頁)
 こうして著者は、巷にあふれている疑似科学の危険性を十分暴いて紹介するのだが、自分自身の発言もまた、疑似科学に過ぎないのではないだろうか、とずいぶん疲れるほどに考え抜き、「あとがき」にも描いている。しかし、このこと自体が、著者の誠実を表していると感じられてならなかった。謙虚で、健全な意見がこのように伝えられていくのは、いいものだ。
 著者の言うように、日本にこの疑似科学について、正統に暴く本が少なすぎると言えるだろう。だからまた、平気で占い師に騙されるという構造ができているのかもしれない。




Takapan
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