本

『福音的キリスト教』

ホンとの本

『福音的キリスト教』
高倉徳太郎
新教出版社
\1800+
/2014.9.

 学生への講義ノートである。短い期間で書き上げられたとも言われる。却ってそれが、ひとつの筋道を作り、あふれる思いがひとつの強い流れとなって明らかにされたとも言える。これが語られてから、あとしばらくすれば一世紀を経ようとしているとは思えない、新鮮で瑞々しい魅力を感じるのは、私が古いからだろうか。私はそうは思わない。聖書は二千年を経て輝く書物である。旧約に至れば三千年胃女の歴史を踏まえたものとなる。私たちは、この百年で日本が大きく変わったと言い切れるだろうか。もちろん変わった。だが、それは進歩と決めることのできない変化ではあるまいか。まして、日本におけるキリスト教世界のありさまは、決して明るい進展を見せているわけではない。
 かつて大いに読まれたこの本が、新たにまとめられて出版された。この企画をなした人々の願いや祈りのようなものを感じる。これが今、提示される意味がある、必要がある、と見たのだ。私も、その思いに重ねて手を挙げようと思う。地味なタイトルであり、また装丁であり、そして知る人は知るにしても、最高度の有名人だとは言えない著者であるが、なんと大きな実を遺してくれたことだろうか。
 妻の実家の隣にある京都府綾部市。ここから生まれた著者・高倉徳太郎氏は、東京神学社に学び、戸山教会を建てる。母校にて教鞭をもとり、教育にも力を尽くした。その産物としてのこの本であるが、当時の学生のレベルは高い。南海な哲学書や思想書も当然読みほぐしていたはずである。しかしこの本は、学術書ではない。洋書を参照しながら論文調に認めたものではなく、同じ思いを誤解なく伝えるために、繰り返し、しかも別の言葉で言い換えながら畳みかけるようにぶつけてくる。まさに講義である。
 講義は五つに分かれる。「聖書とその神観」「キリスト観」「贖罪観」「信仰生活観」そして「福音的キリスト教の特質」である。
 論文調ではないと言ったが、逆に言えば、西洋の思想家の名前やその思想内容について、学生たちは当然一定のことを知っているという前提をもちつつ語っており、ひとつひとつ注釈を加えないというのも特徴である。従って、私たちも、一定の準備が必要であるし、古来の神学者や神学思想についても一応の理解をしておかなければ、スッと読めるものではない。
 が、思弁的であるようには見えない。むしろ、信仰者としての自身の体験的理解がないところには、救いも信仰も無意味である、と言い切るようなエネルギーを感じる。そこで、読んでいくうちに、私は次第に響きが同調していくのを覚えていくこととなった。それは、私がやはりそのように感じているからである。もとより、そうでない信仰者を批判するようなつもりはない。キリストの枝して、信ずる一人ひとりは、様々な役割を与えられている。違いは当然あるものであって、軽率に他人のことをあげつらうような気持ちはさらさらない。しかしながら、タイトルにあるように「福音」という観点からするとき、自分だけが偉そうに思想を述べて福音だなどということはできないと考えるし、逆に聖書に関係なく善いことをすれば福音だなどというつもりはない。ただ、私に言わせてみれば、聖書を読めば体験できるという保証はないが、体験があれば聖書は読める、とは言うことができる。キリストと出会った経験がある者は、キリストの記した書は読む資格があるし、読んで自分なりにではあるが、意味を感得することができて然るべきだと思っている。それが唯一正統な読み方だ、という意味ではない。「読める」ということである。読んでさっぱり分からん、ということがないというわけである。著者は、私がこのように告げるいい加減な言い方ではなく、聖書から、また神学的観点から、様々な言い方を駆使して、このようなことを適切に述べている。いや、述べ続けている。
 著者は、いわゆる原理主義でもない。聖書に誤りの「あ」の字もひとつとしてない、などというつもりはないらしい。しかし、自由主義神学のような冷静な捉え方でもない。極めて情熱的に、とにかく主に会ったのだ、という事実が否定できないことを前提にして、聖書を自分へのメッセージとして受けとめていく営みについて、決して妥協はしないという姿勢である。この意志こそが信仰であり、それなくば、聖書を語ることはできない、という勢いを確かに示している。これが、私が惹かれる理由である。
 聖書についての文献知識から、さも聖書の真実を言い当てたように衒うようなことを、私はしたくはない。そうした研究が意味あることは分かっているし、その研究の成果を戴いて味わわせて戴くことについても、謙虚な気持ちでいるつもりである。しかし、「では自分自身はどうかね」と問われたときにどぎまぎしないような姿勢を、私は持ち続けたいと願っている。いついかなる理解や解釈をしても、自分はどうか、自分にはどうなのか、まず最初に検討する眼差しを持っていたい。むしろ、そういう自分との関わりからしか、まず聖書を読むことができない、とでも言うべきであろうか。
 永遠の命ということも、著者はラディカルに考えているように見える。素朴な信徒が思うようなイメージで理解しているのではないことを明言する。だが、だから異端だとか、福音的でないとか、そう早急に裁く必要はない。講義全体を受け取るとよい。著者の真意は、きっとこれも一つの大切な福音なのだというふうに読みとれる。また、読者としても、そういうゆとりを持ちつつ、こうした優れた解説や聖書に触れていきたいと願うものである。
 非常に個人的な信仰の強さが目立つものであるし、神学的にも当時の幾多の人物の蔭がちらつくのも本当であろう。だが、どういう影響や時代的背景があろうとも、ひとりの人間が全人格と全人生をかけて考え、生きた証しについて、誰彼が非難をすることはできない。キリストに出会った一人の人間の姿であり、与えられた知性を駆使してそれをまた他人に語った人物である。
 福音とは、信仰とは、そうしたことに考えてみたいとき、一度は没頭してみたい本である。




Takapan
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