本

『不潔の歴史』

ホンとの本

『不潔の歴史』
キャスリン・アシェンバーグ
鎌田彷月訳
原書房社
\3360
2008.9

 清潔でないといけない、と何度も手を洗う人がいる。潔癖症(性)だ、と昔なら冗談のような病名で言われていたことが、今やたしかな疾病として認められている。まさに潔癖症といった感じで、精神的になかなか厄介なものとなったかのようだ。
 いったい、何が清潔でなければならないのか。どの程度なのか。人間の体には、雑菌がないなんてはずもなく、逆にきれい好きな人こそ病に冒されやすいとも言われる。
 その程度の認識で本書を開くと、カルチャーショックを受けるだろう。人類は、そもそも不潔極まりない歴史を刻んできたということが、よく分かる。
 日本人は、江戸時代でも、かなり綺麗な町に住んでいたという声もある。衛生的には恵まれた環境にあったし、またそういうものを好んでいた、とも言われる。しかし、平安時代には、牛車の糞が平安京至る所に山積みしてあったし、羅生門にもあるように、死体を都の片隅に平気で捨てていったようだとも言われる。
 こちらの本は、ヨーロッパやアメリカが舞台である。そこでも、信じられないくらい不潔で平気であったのだということが分かる。だいたい、皆が不潔であったときには、特別に自分だけが臭うようなことが、ないのだ。香水が発達したのもこうした背景によるのだろうし、香辛料に命を張ったというのも、食生活がなんとなく偲ばれてくるから面白い。
 キリストは、ユダヤの清めの儀式を廃棄していった歴史がある。何が清いか清くないか、ユダヤの範囲では厳格に守られていたものが、キリスト教になって、撤廃されたのである。そして聖書の中にも、清潔に関する規定らしいものが、たしかに見当たらない。むしろ肉体を敵視して、精神的なもの、霊的なものに目を留めることを教えとした場合には、肉体が汚れているのは当然のことであって、不潔なほうが、却って教えのためにはよいと思われることさえあったかもしれない。
 西洋の歴史の中のこうした不潔についてのレポートが、実に詳細にわたり、また様々な資料を披露しながら続いていく。清潔については、進歩しているとは言えない、ということらしい。ローマ人が考えていたあたりに戻った程度は言えるが、進歩ではないのだそうだ。それどころか、自分の世界を築くことで自分だけは無菌であるかのようにすら考える愚かな空気に包まれていて、結局「手洗い」程度のことが一番大事だということを、今もまた大声で注意されている現状なのであるという。
 文明批判でもあるのだが、まさに、当たり前だと思っているところに光を当てるというのは、それに気づいた人の大いなる仕事ではないだろうかと思われる。ややマニアックなふうに見える本であるが、好奇心を満たす以上に、私たちの生活そのものを省みる眼差しを与えてくれることであろう。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system