本

『ふしぎなキリスト教』

ホンとの本

『ふしぎなキリスト教』
橋爪大三郎・大澤真幸
講談社現代新書2100
\882
2011.5.

 対談などを文字にして本にするというのは、どちらかというと安易な方法だと感じる。喋らせておいて、録音を起こせばできあがる。もちろん細かな修正などもあるが、話のうまい人がこれをするならば、ひとつの形が簡単にできあがってしまう。それは、どちらかというと、練りにねって築き上げたものというよりも、流れの中で現れたというものに近い。本の論理は構築すべきだと思う私にとり、なかなか馴染めないタイプのものであった。
 ところが、この本は、その比較的自由な流れのなりゆきが、実のところかなり練られたものだという気がしたのと、内容が内容だっただけに、十分楽しませてもらった。対談した二人ともが、それぞれに本の最初と最後に、これは面白い本だと自ら言っている。自ら舞台で笑う漫才師は素人に過ぎないが、この場合は出来の満足さを表しているものとして評価したい。そして、事実楽しかったのである。
 二人とも、信徒ではない。しかし聖書や歴史のことをよくご存じである。よく勉強してあると感心する。そして、信徒がなあなあで済ませるような部分を、鋭く突いてくる。広く文明の観点から、また他宗教との比較においても、キリスト教の外から眺めている。それでいて、善悪の価値をにじませているものでなく、学者的スタンスで調査し、これまでなかなか露わにされていなかった面を公にしようという意気込みが感じられる。その意味で、確かに面白いのである。
 二人がそれぞれ役割を担っているのもいい。大澤氏は、キリスト教について一般にうわべで捉えられているような、ちょっと勘違いをしているような人々のタイプを代表している。司会進行はこちらであるが、よいボケをかましてくれるので、橋爪氏の解説が際立ってくる。こちらは、蘊蓄を傾けるようにして、実のところどうなのかという知識を披露してくれる。大澤氏は、それにまた同調し、新たな展開をすらもたらしていくので、話が途絶えるということがない。
 信仰に入って間もない人が読むには酷であろう。また、キリスト教というものについて初めて知ろうという人が見るのも、何か偏見のようなものに囚われないか心配ではある。というのは、この二人は信徒ではないために、信仰者の視点では語っていないからである。ただ、だからこそ見えているものもあるのは事実である。とくに、日本人がどのようにキリスト教の世界と違うのかというところを、社会学的見地から簡単に言ってしまっているところなど、ハッとする。法などに縛られたくないから何でも神にしてしまい、その神から何かを聞くという発想をもたない、というような説明である。また、同じ神でありながら様相の異なるユダヤ教とイスラム教との違いに光を当てたのもこの対談の特筆すべきところであって、そこに「法」の概念を導入し、それにより説明しているあたり、新鮮で勉強になる。さらに、宗教改革の謎についても触れる。利子をとる労働の祝福と、現代文明を支配していると言ってよい近代科学の生みの親たるものが、キリスト教、とくにプロテスタントなのであるが、それが見た目には信仰と逆のようなものであるのにどうしてそうなったのか、ということを説き明かすところも、読んでいてわくわくするほどだ。通常ありがちな疑問というものをきっちり語ってから、そうでないという方向にもっていけるのも、対談の醍醐味であろう。
 聖書研究において諸説あるような問題についても、神学者とは別の観点から触れ、そこそこの成果を収めている。もちろん、限られたこのスペースの中で尽くされているわけがないのだが、単純にある方向でスパッとまとめることにより、読者にわかりやすさを提供しているのは確かである。だが、それはやはり単純にしたという点は否めない。一本の糸、話の前提という部分で意見を一致させておいて、それをもとに検討を展開していくわけだから、当然そういう構造にしていかないといけないのである。
 しかしそういう切り口は考えさせられる。曖昧なままでぼやかしているような問題も、ひとつくっきりとした像が浮かび上がると、それについて考えさせてくれるものである。ここでは「一神教」の本質について、考えさせてくれた。それは神が主体なのだという。そして、日本にはその文化が皆目ないのだという。となると、これは日本における布教は大変である。ただ、ならばいわゆるキリシタン時代、どうして現代と同じほどの信者が数えられるほどに受け容れられていたのだろう。もちろんそれは、果たして本当に今私たちが思い描くキリスト教信仰であったのかどうか、分からない面がある。大将が信仰すると言えば一族郎党も信徒になるという世界でもあった。また、カトリックであるという意味のほかにも、様々な日本的理解が伴っていたことで、今の私たちとは合わない部分を多くもっていることだろう。しかし、日本人はデウスに従った者が爆発的に増えたことがあったのだ。こうした点までは、この本で触れられているわけではない。やはり西洋の歴史におけるキリスト教というものを扱う専門であるのか、日本人論を展開したわけではないために、こうした疑問について考察しているとは言えないものである。
 私のようにひねくれたクリスチャンであれば、こういう理論的な部門でも慌てず騒がず扱うことが許されるものであり、学的な意見に戸惑うようなことはなく、いろいろよい刺激を与えてくれたのは間違いない。むしろ本当に学べる。大きな収穫は、昨今のキリスト教特集誌のブームについて気がついたことである。何かあるとは思いながらも、キリスト教や聖書についてやたら世の中が知りたがっていること、そのためにいくつもの出版社がくどいくらい特集を組むのを、心のどこかでは、歓迎していたものである。関心をもってもらうことは、無視されるよりはよいと思ったのだ。しかし、これを単純に喜ぶわけにはゆかないことが、この本を見てはっきり分かった。おそらく、この時代の変革を考えようとしたとき、この時代をここまで形成してきたキリスト教というものについて、日本人が実のところ何も知らないのだということに気づいたのだ。そして、そもそもキリスト教なるものは何だったのか、まるで墓標に刻みでもするかのように、結論をまとめて下そうとしているのだ。もうこれからはキリスト教など駄目だ、という前提の上で、しかしこれまで自分たちを支えてきた陰の功労者について一度はっきり調べて歴史に刻んでおくほうがよいと考えているのだ。得体の知れないものに支配され、そこから生まれた科学を享受してきたというのは気持ちが悪い。知らないではおれない、という気持ちになったのではないか。ところであのキリスト教って、何だったの? と。
 そのことを、この本の題に付く「不思議な」が物語っている。日本人にとり、これは不思議でたまらないのである。そして、日本人クリスチャンの中にも、実のところその観点からしか信仰を捉えていない人もいるはずだというふうに思う。日本的キリスト教と呼ぶのもよいが、私は個人レベルで言っている。聖書について知識はあるし、教会にも行く。が、キリスト教の世界に属していない場合があると思うのだ。そこから見たキリスト教は、まだどこか「不思議」なはずである。
 この本に刺激された問題に触れていこうとすれば、いくらスペースがあっても足りない。また今後の思索の材料とすることにしよう。その意味では、面白いばかりでなく、役立つ本であると言えよう。私のような者には、そうだった。




Takapan
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