本

『死と向き合って生きる』

ホンとの本

『死と向き合って生きる』
平山正実
教文館
\1500+
2014.12.

 キリスト教と死生学というサブタイトルが付いている。
 著者は、この本の発行の一年前に亡くなった。というよりも、亡くなって一年後を記念して、出版された。
 医科大学の教授であり、研究所やクリニックでも地位をもっていた。そして、自死に関するケアや防止のために、尽力した。グリーフケアなどの研究が活かされていた。  いくつかの論文が集められている。著者が見つめていたもの、言おうとしたものが何であったのか、それを問おうとしている。
 クリスチャンとして、信仰を強くもち、それに基づく世界観をもっていた。つまり、死や生についても、キリスト教の、聖書の考えを強く有していた。ただ、学問的な場ではそれを押し通すような態度をとらず、地の塩として黙々と仕事をしていた。それが、やはり命の限りを知る中で、自分の信仰を表に出した形で、自分の仕事の集大成をしようと考えた。そのようにして記されたものが、ここに一冊の本となった。つまりこれは、信仰の書でもあるのである。著者にとり、これは従来なかったものなのである。
 適切な、医療的な姿勢もよく触れられている。と同時に、聖書の世界観に貫かれた命への眼差しが表に出たような論調もまた含まれている。それは、まずは「死」そのものについて見つめる。死の体験は、他人の死でしかなく、自分の死についてはもはや経験したとはいえず、言及ができない。つまり何かを考え論じた者は、自分の死だけはまだ知らない時にそれを語っている。この学的なジレンマの中で、しかしそれと向き合うことがどうしてなされるか、必要か、そんなことを捉えながら、真摯な問いと自らの中からの、そして聖書からの回答がなされていく。
 死生学という名を提唱し、一般にも受け容れられていったのではあるが、著者は人生の幕を閉じるにあたり、どんでん返しを図る。これは「死生学」と呼ぶにあたらず、真実には「生死学」なのである、と。哲学においても、死を考え、メメント・モリの精神で生を捉えるのが精一杯であったのだが、今や死を問うために生がある、とでも言いたいのだろうか。それは、キリストの復活があるからである。キリストの十字架の死は何であるのか、信仰の眼差しは見つめ、そして委ねる。だからこの本は、まことに信仰の書として受け止めて然るべきものとなる。
 えてして、そのようになると、科学を宗教のために利用するようなところが出てくることが多いのであるが、この本はそんな印象は与えない。たいへんバランスがよく、科学は科学、宗教は宗教というレベル差が歴然としており、それぞれの場面で傾聴に値するものが多い。領域を異としているために、筋道に無理がない。私たちは、医学的な部分はそれとして学び、信仰的な部分はまたそれとして学ぶことが可能なのだということを知るであろう。
 最後に著者が到達した境地は、「未完の完」という言葉で示されるようなものであった。人生で立派なものが完成するということにこだわる必要がない、未完成になるものが多々あるものである。しかしながら、それは単なる未完成ではない。ひとつの完成であるのだ。その人の完成がある意味で成立したのであり、もし未完了であったように見えたとしても、おそらく神が、永遠の相の下に、それを完了したと認めてくださるのであろう。
 感慨深い本であった。生命の叫びが轟いていた。つまり、すべてにわたり真摯であった。客観的な神学もよろしいが、全生涯と全生命を懸けた業績としてのこれらの論説に、私たち読者もまた、襟を正される。こうした生き方を、自分もできたら、と願うようになる。それだけでも、この本は大きな仕事をなしたことになるであろう。
 聖書の生命観を学ぶ上でも有意義である。人生の中で、読んでよかったと思えるような一冊になっていると私は思う。




Takapan
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