本

『初期キリスト教の思想的軌跡』

ホンとの本

『初期キリスト教の思想的軌跡』
J.M.ロビンソン・H.ケスター
加山久夫訳
新教出版社
\3200+
1975.9.

 ある方が本の中で薦めていた本を見つけ出した。古い本であり、さて大きく知られている本なのかどうか分からないが、そもそも邦訳が出ており、400頁あるとはいえ1975年にこの小さな本が3200円で売られているというのは、なかなかのものである。読むべき人はちゃんと読んでいたのだろう。日本の神学の世界に大きな影響を与えていたのかもしれない。
 新約聖書の研究が大きく変化した時代であると思う。ブルトマンという巨人に世界中が吸い寄せられたものの、それだけですべてが完結するはずもなく、ブルトマンを超えようとする動きもあり、しかしまたどのように超えていけばよいのか模索していた時期に、新たな針路を目指すために神学の成果をまとめる役割を果たしたのかもしれない。
 原著が1971年であるから、比較的早くに邦訳が出されたことになる。死海文書がすでに発見されて、じわじわとではあったが、新たな新約聖書研究の流れができていたのは事実である。同じ時期にナグ・ハマディ写本の発見もあり、それが公開され始めたそのころに、本書が書かれている。つまり、新約聖書界はこのとき、トマス福音書の登場に沸き返っていたのではないかと思われる(私は当時を知らないので、すべては無責任な推測に過ぎない)。本書の中で、ややセンセーショナルにトマス福音書が取り上げられ、たいそう大きな役割を果たすべく論じられているのは、そのホットな話題の故ではないだろうか。
 いわゆるグノーシス主義に属するものではあるだろう。新約聖書の信仰的な領域に直接影響を与えるものではないかもしれない。しかし、そうでもないかもしれない。そもそも新約聖書がどのようにしてできたか、そこに新たな視点を与えるということは、では新約聖書とは何かという問題に必然的に関与してくるはずだからである。
 若干の意見の相違はあるだろうが、その点で志を同じくした2人が、こうした問題を含めて新約聖書研究の新たな方向を定めるべく論文を紡いだのがこうして一冊の本になった。これまでの研究の流れと意義を説明し、評価する。交通整理をしているかのような始まりであった。とくにQ資料と呼ばれるものについての整理は、新約聖書の成立そのものに強く関わる重要な研究成果であったことだろう。
 信仰するが故に、分からない部分は神の意図であり摂理であろう、そのように捉えることも当然できる。だが学者魂はそれを許さない。それでいて、学者が冷徹に聖書をただの歴史書として扱って調べているのであれば、それを解釈しそれに生きた人々の心を機械的に扱うことになりかねない。学者といえども、一人の信仰者であるわけで、ただその信仰というのが、聖書の成立については冷静に歴史の中での事実を突き止めたいという思いを背景としているということである。キリスト者が、こうした研究に痛みを覚えることは十分分かっている。だが、それを乗り越える知的な営みは、今日のキリスト教世界に、従来気づかなかった世界をもたらしてくれるのではないか、という信頼は確かに持っている。
 確かに、第二次大戦後の神学界の受けた衝撃とそこからのスタート、そして経歴について、本書は専門的な眼差しで鋭く追求していると言えよう。現代につながる研究者の営みを、私たちにつなぐための重要な道標となっているであろうことは事実である。新たな文書の発見は、まだ十分に解明されたとは言えない情況であろうから、ここに記された分析が、その後どれほど有効かどうか知らないが、ただ、もはや時代は、聖書内部における血統を論議するような、死海文書やナグ・ハマディ写本に躍起になっているようには思えない。私たちは、もっと世界の現実に直面し、またキリスト教世界の分裂と一致、他宗教との対話やコミュニケーションと平和の実現に、より真摯に取り組まなければならなくなっており、へたをすると欧州のキリスト教は硬直し死滅へと至っているかもしれないというくらいの懸念さえ現れている。その中で、これらの文書を指針として聖書を研究する営みが、今後どれほど要請されるのかどうか、それも分からない。ひとつの礎であり道標であることには異議を挟まないが、さらにいま、聖書でなくても同じ救いがあるのでは、といった議論さえ盛んになってきていることを思うと、本書を十字路として、別の道を選ぶようであることが賢明だとは思えなくなる。信仰の眼差しで本書から学ぶものは多いが、使い方には気をつけなければならない気がしてならない。




Takapan
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