本

『<できること>の見つけ方』

ホンとの本

『<できること>の見つけ方』
石田由香里・西村幹子
岩波ジュニア新書791
\800+
2014.11.

 サブタイトルに「全盲女子大生が手に入れた大切なもの」と付いていなければ、もしかするとあまり注目されなかったのかもしれない。そして彼女は、このような障碍に関する語を、タイトルには入れてほしくなかったとずっと言い続けてきたのだ、ともいう。この辺りの経緯を、国際基督教大学(ICU)で彼女を担当した西村幹子さんが、本の最初と最後に明らかにしている。話題の女子大生の叙述だけで十分本にはなり得たのであろうが、担当教授(正確には准教授)が、いくぶん客観的な視点で押さえているというのは、本としての基盤を調える上で、私は良かったのではないかと思う。若さ故の力や真実というものも当然ある。しかし、もう少し長いスパンで捉えられた人生の評価の仕方というものがあることで、勢いだけではないその意義が確認されるという点が認められるからだ。このジュニア新書という、中高生を対象とした形式の新書の中に、十分収める価値のある作品として、安定した存在感を与えることにもなったと言えるだろう。
 全盲の女子大生。簡単に言うが、並大抵のことではない。石田さんも中で触れているが、かつてそうした人がいて、確か私もどこかでそのことを読んだことがあるが、その人のことはむしろ後で知りつつも、今の時代に挑戦をし続け、自分の道を歩いている一人の若い女性の、これまでの出来事と、そこから学んだことの、一大レポートとなっている。
 その細かなところは、ぜひ実際の本で触れて戴きたい。
 全編を通じて伝わってくるのは、そのタイトルに障碍のことを入れたくなかったという石田さんの意見にもあるように、これは障碍の本ではない、ということだ。それは前提として、確かにある。それを否むことはできない。だが、読んでいてひしひしと感じるのは、自分にとって「全盲」とは何であろうか、ということであった。その言葉はもちろん、全く視覚が利かない、ということであるが、私自身にとり、全く分からないもの、欠けているもの、それは何か、ということである。人は誰でも、何かしら欠点をもち、また欠陥をもつ。さっぱりできないということがある。ある意味で、それをやれるようになれ、というのには無理なこともある。背が2メートルになり、バスケットボールの選手になりたいと思っても、それは私にはできない。バイオリン奏者にも、なれないだろう。人の顔と名前を何千人と記憶している人がいたが、私には無理だ。その故に、不便なことや不利なことというものもあるだろう。だがそれが何か必要であるとして、誰かの力を借りて、また文明の利器の力によって、いくらかカバーできる、助けてもらえる、ということもあるはずだ。言ってみれば、見えないというのもそういうことだ。私がそこまで背が高くないといって、かわいそうだとみなすひとはまずいないだろう。全盲というのは、この社会では不便があるのは確かだが、それをかわいそうだとみなす必要は、基本的にないのである。
 もし、かわいそうという言葉が適合する場合があるとすれば、それは、この社会を、彼らにとり不便なように構築してしまった者たちのせいである、と言うべきかもしれない。これは聴覚にまつわるほうだが、ろう者のグループの中にぽつんと聴者がひとり置かれたら、この聴者のほうがコミュニケーション不全に陥る。手話文化の中で少数派になった聴者は、逆に不便だ。盲の人と晴眼の人とがそこまで明確な情況があるかとは考え付かないが、たとえば電気もない暗闇に置かれたら、たぶん晴眼の人のほうが不便を覚えるだろう。音やにおいについて、あるいは触覚の差異についても、能力的についていけないのではないだろうか。おそらく、記憶力も。こうなると、どちらかかわいそうだか分からなくなる。繰り返すが、かわいそうな事態に追いやっているのは誰か、という点について、一考する必要があるだろう。
 また、必要とされていることの意義が問われている。たぶん、石田さんの今の境地というか、今歩いている世界で見出した大きな原理のようなものが、それなのだろう。そして、必要とすること・されることの中に、愛というものを見出していることも、記述から受け取られるが、これも思わず肯いてしまうことだと言える。
 クリスチャンではないことが書いてあるが、フィリピンに一年間いたときに、教会とは深い関わりがあったという。そこで、貧しい中で心を通い合わせたこと、そのフィリピンの盲の子どもたちとの関わりにおいて、見つけ出したことが語られるとき、教会のメッセージをたくさん聞いていることが伝わってくる。そのことは、本人が意識しないままに、考え方に影響を与えているのだということも、読んでいて感じるひとつのうれしい発見であった。
 何かしてあげる、そういうことが望まれているのではない。安易に「共生」と言って、何か良いことをしている、そう考えることが適切なのではない。このように、障碍を負っていると言われる人が、考えていることを表明する機会は、この時代になってもそう多くない。団体内での文書は豊富にあるが、一般に広く伝わるような形で本音が、何かしら相応しく語られているというものは、まだ少ないと思う。このジュニア新書は、その表舞台に立つに相応しい一冊であると思う。ちょっと、家族の方の内実が強烈で、それでよかったのかしらと心配すらしてしまうのだが、内容的にフォローはしてある。せいぜい、読者が偏見を持たないことが肝要であろう。
 それから、教会に全盲の方がいるのだが、いつもその服の色に、いいものを感じていた。どうして色というものが、と不思議に思っていたが、その内実が、この本を読んで判明した。今度、服の色やおしゃれについて、話をしてみようと思う。




Takapan
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