『だまし絵のトリック』
杉原厚吉
化学同人DOJIN選書034
\1470
2010.9.
エッシャーで有名になった、だまし絵。目の錯覚の問題さ、などと呟いてみても、どうにも現実味のない図形である。どこまで昇っても終わりのないぐるぐるした階段であるとか、下に落ちた水が流れているうちにいつの間にかまた上に戻って水車を回しているとか、ありえない絵である。もしや永久機関ができたのでは? と思うならまだ夢があるのかもしれないが、そんなのは絵の中でごまかされているだけだ、実際に立体としてそれがあるはずがないのさ、などと知ったかぶりをする人もいるかもしれない。
確かに、平面の中に立体を描いたら、何かしら不都合があるかもしれない。この本で明らかになっているのだが、私たちは、直角ならざるものをも直角として認識している。見取り図を考えてみれば分かる。そのことが実は罠となって、交わった三本を無意識のうちに直角であると思い込んでいることから、線を延ばしていくと不都合な不可能な図形になっている、ということが起こってしまうのであろう。
それは、ただの目の錯覚というのとは違うのではないか。いや、錯覚もまた、こうした現象からその理由を探り当てることが可能になっていくのではないか。
著者は、平面における錯覚を、その直角の思い込みの中に求めるのであるが、これを立体の中に持ち込むというのが実に頼もしい。つまり、ありえない姿が立体の中で起こっているとしたらどうか、というわけである。今度はたんなる目の錯覚だと言えるのだろうか。
著者はペンローズの三角形という、シンプルではあるが確かに奇妙な図形をまず取り上げる。一部分ずつ見ていくと何ら矛盾がないのであるが、全体として見ると、直角のはずの棒がいつの間にかねじれているという具合である。これを著者は、見事に立体で再現する。目の前にあるはずの三本の直角にしか見えない棒が組み合わされているが、どうにもそれはねじれていないとありえない姿を呈しているのである。
こればかりではない。著者が最も気に入っている、向かい合った四つの溝を、手から離れた球が見事に自然に昇っていくという芸当を見せつける。どう見ても、坂を登っているようにしか見えないのだ。
立体の中でそのようにできると、甚だ奇妙な気がする。たんに、実は同じ長さの線が違って見える、というのとはリアリティが違う。たとえば、目の前に人がいるように見えるが実はいないのだ、などと言われると、ぞっとするではないか。人がふわふわ浮いているように見えるとしたら、気味が悪いではないか。
ところが、この立体、角度を変えて見ると、なんのことはない、奇妙に歪んだ立体がそこにあるではないか。
その他、いろいろな錯視の立体が紹介されている。私たちの思い込みがいかに大きいか、がそのうち分かってくる。斜めであるのに、それはたぶん直角なのだろう、と経験上殆ど確かなことを感覚に言い聞かせるかのようにして、私たちは、直角だと思い込んで判断してしまうのだ。
簡単に、見えるものを信用してはならない場合がある、ということをこれは教えてくれる。私たちは、実際に自分が見たというものであれば、真実だと疑うことはない。だが、どうもそれも怪しいのである。
この、坂を昇るボールは、錯視つまりイルージョンの世界大会で見事グランプリを飾った。アジアで初めてだという。その時の経緯や有様が、事細かに描かれている。あとがきの代わりに、そうしたものがある。受賞してほやほやの中で執筆されたこの本が、明るくないはずがない。楽しい本となった。だが私はそれと同時に、人間が真実だと思い込んでしまうものの怖さを覚える。この思い込みが衝突して、時に戦争にまで発展するのだ。人間は愚かであると言うべきなのだろうか。