本

『十字架への道、復活からの道』

ホンとの本

『十字架への道、復活からの道』
越川弘英
キリスト新聞社
\1800+
2005.2.

 レントから始まる黙想に相応しいメッセージが集められている。「レントとイースターのメッセージ」という副題が赤く記されている。プロテスタントに属する私は、レントということに、これまで実はあまりこだわっていなかった。大事なのは受難週と復活祭ではあっても、レントはカトリックの行事だと思っていた。しかし、この本で、その認識を改めた。レントは、かくも豊かで深い黙想と霊のひとときであったのだ。
 これは、説教集と言ってよい。だが、ひとつひとつを丁寧に味わうべき読み物としての完成度が高い。まず「まえがき」で、キリスト教会がつねに復活を祝しているはずであることを確認し、復活のイースターを目がける準備としてのレントに福音の機会があること、そのためのしかし「静」の期間であることを告げる。こうして、十字架を頂点とする歩みが、レントから始まることになる。このとき、私たちはイエスの生涯を追う10頁程度のメッセージが、まずイエスの荒野の誘惑から始まり、癒やしやあれこれの業に拘泥しないままに、たちまちロバに乗りエルサレムに入城する場面に至る。そうして、最後の晩餐からユダの裏切り、裁判から十字架、そして埋葬と駆け抜けていく。
 その眼差しは、冷たく突き放したようなものではない。温かく、しかし辛辣なほどに人間の、そして私の罪を問う。いったい、裏切ったのはユダだけなのか、いや、弟子たちは皆ひどく裏切ったではないか。私たちも、正義の味方のような顔をしている場合ではない、誰もが裏切りをしたのだ、しかし、それでいいのだ、そこからが救いの始まりとなるのだ。こんなふうに私たちの心をわしづかみにして、キリストの前に引き連れて行く。何度、私はハッとさせられ、そんな聖書の見方・視点があったのか、と胸がいっぱいになったことだろう。ありきたりの福音的解説ではない、説教者自らの真摯な問いかけと霊的な着眼に基づく、福音の真実な視点が現れるのだ。だから追いかける私たちは、聖書と救いの深みへの新たな視界を与えられ、新鮮な魅力に包まれていくことになる。
 しかし、十字架へたどり着いてそれで終わりではない。そこに復活がなければ福音とはならない。私たちの信仰は、パウロが言うように虚しい。ただ、復活で終わりということでもないのだ。復活したイエスは弟子たちに現れ、従うことを求める。だがたとえば、エマオ途上の物語で、私たちも一度は感じた疑問を正面から問い直す。どうして目の前にいるイエスをイエスだと認識できなかったのだろう、と。はっきり顔を知らなかったのだ、とか、湖での弟子たちの場合には、距離が遠かったのだ、とか、そんな合理的な説明がしばしばなされる。それでは聖書にならない。救いの書にならないのだ。私たちは、教会に集っていても、話し合いの中に、イエスを忘れているということがありはしないだろうか。イエスのことばを説教から聞いても、さして気に留めていないような対応をとっていることが、ありはしないだろうか。イエス・キリストに出会っていながらも、それと認められなかったという経験が、ないはずがないのである。自分の都合や、自分の見識の虜になってしまい、神の心が分からなくなっている、ということがあれば、それはまさに、このエマオへの道での弟子たちと、全く同じことであるのだ。また、私たちがイエスを自分の目的を叶えるための道具・手段のようにしか考えていない場合に、それは起こる。そんな、私たちの弱さや自己中心なところが、ぐいぐいとえぐられるようなメッセージであるわけである。
 最後には、昇天でこのメッセージを終える。しかし、そこから初代教会が始まっていったように、私たちもまた、この復活と昇天から、私たちの歩みが始まっていく。そこから先は、イエスの姿を直接見ることはないけれども、委ねられた私たちが、主の霊をひたすら頼りにしつつ、信頼を寄せつつ、歩んでいくことになるであろう。だから、この本の題の後半は「復活からの道」となっている。希望の書であるわけだ。
 なんとももったいないくらいに、あまりに注目されていないようなこのシリーズ、私はもっと霊的にも、読まれていいと思う。これにより自らを悔い改めるクリスチャンが増すことにより、リバイバルが起こるというほどに、推奨したい。そのためにも、まずは私自身が、その恵みに与る必要がある。そのように、いま祈りたい。




Takapan
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