本

『黙想 十字架上の七つの言葉』

ホンとの本

『黙想 十字架上の七つの言葉』
加藤常昭
教文館
\1800+
2006.3.

 聖書の説明というものでもない。学術的な論文とも違う。そういうのが礼拝で語られる説教だとも言われる。だがまた、本書はそうした説教でもない。いや、説教で語られてもよいものだとは思う。しかし、ただ十字架を見上げて、静かに神の語ることを聞く、それだけの営みの中の出来事であるとすれば、それで十分であると思うのだ。それが黙想である。他人の黙想を聞いても仕方がないと思われる人がいるかもしれない。だが、適切に黙想に向かえば、自分の黙想とこのような黙想とは見事に重なる。新たに目を開かせてもらえると共に、同じ心でただ静かに時を過ごすことができる。本書はそれだけの価値がある。少なくとも私は、心が震えて仕方がなかった。
 イエスは十字架の上で、七つの言葉を発したとされている。福音書4つにそれらは分かれて書かれているが、ごく一部を除いては、それぞれに一度きりしか記されていない。従って、それらが漏らさず語られたにしても、どういう順序で語られたかは定かでない。だが伝統的に、一定の順に並べて聴くようになっている。そこは二千年の歴史である。イエスの十字架を慕う、それがクリスチャンでもあるわけなので、これに関心を寄せない人はおらず、共感できる理解の仕方が積み重ねられていると言える。
 それらの一つひとつを、20〜40頁ずつ黙想し語っているというのが本書である。また、時に美術作品を写真で提示し、先人たちが黙想してきた思いと心を重ねていくことができるように配慮されている。
 著者は、神から自分が問われていることを十分に自覚している。だから、他人を攻撃しようなどという意図はもっていない。それでいて、その指摘に胸を刺されない人はいない。イエスの言葉は、須くそうなのであるから、イエスの心を聴こうと祈り静まっている魂が、その賜物としての言語能力を以てこのように伝えてくれるものは、イエスの心そのものでありうるのである。私たちは噂話を好み、自分は常に正しい人の側にいて、他人を裁くことができると思い込んでいる、という指摘がたとえばそうである。そんなことはクリスチャンとしてしてはならないし、してもいない、と言い切れるだろうか。そんなことは守っています、と憚らず言うのならば、その人はその瞬間に、福音書の中のファリサイ人としてイエスの前に立っていることになるだろう。そんなことに気づかせてくれるのが、この黙想である。
 おそらく著者が40代の年齢のときに、教会で語った説教が見出され、それを出版しては、という話が持ちかけられたそうだが、考えて、そのまま説教集として出すのではなくて、すっかり書き改めて黙想として世に現したいと思ったそうである。これはありがたかった。説教というのも優れたメッセージであり、私は大好きである。一日誰かの説教を一つは読まなければ落ち着かない毎日であり、誰かの説教集を常に少しずつ開いている。特に著者は、これを急いで読むなと「あとがき」に記している。これはできるなら、「まえがき」に掲げるべきであった。だが、心ある読者は、間違いなく最初からそのようにしているはずだと私は思う。もちろん私もそうだった。これはゆっくり読むしかないと最初から感じていた。だから2週間で全体を見るようにしていた。じっくり主と対話しながら時間を過ごすしかなかった。著者もそれを強調している。主イエスの十字架を見上げながら、対話をすること。この時代に生きるクリスチャンにとってそれは不可欠のことだ、そのように告げて、本書は閉じられる。
 カトリックにはよくある霊想といったものの、プロテスタント版として実に優れた、それこそ著者の魂のこもった本である。クリスチャンとして生きる時に、必ずや助けとなるだろう。すべてのキリスト者に黙想してもらいたいと切に願う本のひとつである。




Takapan
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