本

『カトリック教会と沖縄戦』

ホンとの本

『カトリック教会と沖縄戦』
西山俊
サンパウロ
\1800+
2001.10.

 太平洋戦争を知る著者は、カトリック司祭として、カトリック教会の戦争責任を追及している。それだけでも驚くし、それをさせているカトリックの懐の深さにも驚くばかりである。
 決してメジャーではないこの本の存在を知ったのは2017年であった。副題に、『平和への決意』の実行を祈りつつ、とあるが、この決意というのは、カトリック司教団が1995年に発したメッセージである。沖縄の焦土化にカトリック教会は責任がある、とするものである。戦後半世紀を経て、ようやくここまで来たのではあるが、著者からすれば、それは口先だけのことに過ぎないものらしい。
 私はカトリックのかつての姿、まして戦時中のことについて直接知る由もないのだが、プロテスタントでも、沖縄問題は重いものを有している。プロテスタントは教派毎に対応も異なるわけで、中にはホーリネスのように抵抗が強く殉教者を多く出したところもあれば、うまく時流に乗っかり、軍機を提供して日の丸の旗を振っていた教団もある。
 本書は、大阪教区の月報に連載されていたものをまとめたものだという。まずはカトリック教会と15年戦争における戦争責任の問題を総括する。神社参拝を容認し、満州帝国を承認したのだという。その後は一貫してQ&Aの形で、沖縄に焦点を当てている。「平和の礎(いしじ)」に刻銘されていない強制連行の人々がまず取り上げられてから、沖縄県民の犠牲のありさまについての具体的な情況一つひとつにおける検証が始まる。戦後はアメリカの基地として置かれることとなったが、その経緯やありさまを豊富な証言をもとに再構成する。本書は沖縄戦もさることながら、この基地問題を中心に据えているものと思われる。具体的にどのような生活を強いられ、どういうことが起こっていたのか、を明らかにする。
 その後日本に返還されても、基地は他地域と比べて減るものではなかった。そんな中、20世紀の終わりに、いわゆる新ガイドラインが合意され、日米安保の中で沖縄の占める役割が、かつての冷戦時代とは変わったであろうにも拘わらず、継続されたことになり、いったい沖縄はどのように扱われているのか、また、そのことで平和憲法は今後どうなっていくのか、が論じられる。
 こうした中で、カトリックの問題は殆ど直接的には扱われなかったが、終わりのほうで再びカトリックが取り出される。そしてQ&Aの後で、カトリック教会の責任が再び問われ、平和の福音の実現のために、口先だけでなくその言葉を真実に実行していこうという提案を行う。その姿勢は、たとえば戦時中であれば、選択しようにもできない情況というのがあり、平和を実現しようと動くことはできなかった、仕方がない、という弁明はいくらでもできるのではあるが、いまこの時代にあっては、実現しようと思えばできるのにしないのは、よけいに責任が重い、というものである。戦後の責任こそ、実は大きいのである、とするのである。これは、責任を他人に転嫁することをも防いでいる。いまここにいる私たちの肩に、その責任が担われている。読者も含め、私たち一人ひとりが、その責任を負っているとするのである。もちろん、カトリック教会が教会としてそれをしなければ、カトリック信徒たちは従えない面がある。だからこそ、教会の責任もまた重いのである。
 過激と言えば過激であるが、このような声がカトリックを動かさないとも限らない。カトリックはカトリックで、世界の中での責任があり、平和の実現のために大きな影響力をもつものであるが、日本においてもカカトリック中央協議会がどういう過去と現在、そして未来を思い描いているのか、試されているものであろう。さて、プロテスタント教会はどうなのであろうか。一括りにはできないにしても、そのあたりはエキュメニカル運動の良いところを表に出してほしいという気がする。




Takapan
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