『文学としての説教』
加藤常昭
日本キリスト教団出版局
\2940
2008.8
早くどんどん読み進みたい。だけど、読み終わるのが惜しい。
こういう矛盾した感情を、読書する者は覚えたことが、きっとあることと思う。なんとも贅沢な話のようだが、こういう本に巡り会えたということそのものが、また幸せなのだろうと感じる。
この本は、私にとり、まさにそういう本だった。
説教学について日本で指導者の役割を果たすと言ってよいだろう。著者は、鎌倉雪ノ下教会牧師などを務めた方である。ドイツなどの事情にも詳しく、訳書も多い。海外の説教者の著作を通じて、また私たちの事情に活かすこともする。
説教は、聖書の言葉を語る営みである。つまりは、いのちのことばをどう伝えるかというその営みである。いのちの係っている行為である。いのちのない、講演会のような説教をするわけにはゆかない。いや、牧師自身が救われており、その恵みの中にあるならば、語る言葉は当然いのちとなるはずである。
しかし、やはり多くの人に訴える力をもつ説教というのがあるだろう。著者自身、そのようなところから、素晴らしい説教にはどんな共通点があるのか、といった問題も意識するようになったのかもしれない。
長年の説教についての考察を経て、説教における文学性という問題を考えてみようとしたのがこの本である。
説教が小説になるというわけではない。比喩などのテクニックを駆使するという意味でもない。文学は、読者にある経験をさせてくれる。ネバーエンディングストーリーのように、読んだ本の中に自分も旅し冒険するのだ。感情移入もするのだ。自分もその本の中の場面に立つのだ。
説教が文学性を有することによって、聞き手は説教の内容に出会うだろう。それはとりもなおさず、イエスに、あるいは神に出会うことを意味する。救いを体験することにつながる。説教は、そういう重みを有する出来事である。
私は、そのように感じる。
著者は、文学と説教というテーマの絡みに関して役立つことは何でも考えている。通常つながりにくいこれらの関係を作るためにも慎重に論を展開する。「言葉」であるという神に出会うために、言葉である説教を聴く。そこに、どのように文学が文学として通じていると言えるのか。そうした問題は、本書を体験することによって自分なりに解決していけるのではないかと思う。
後半に、二つの説教の実例が掲載されている。あるまとまりごとに区切り、解説を入れている。そうだ、私たちの有する文化の中で、説教に解説を入れて提示するということが、どれだけ行われてきたであろうか。否、説教集というジャンルも確立されていると言えないし、そのための資料も揃っているわけではない。それはそうとして、この二つの説教は、クリスマスと復活とに関するものであった。文学とはどういうところにおいてそう呼ぶのか、などの問題について、この実例が分かりやすくしているのは間違いない。それに、この説教がまたよいのである。
私も壇上で語ることがあるが、この本に出会って思いがけずうれしかったのは、私もまたあるとき、文学性の非常に高い説教をした、ということが分かったからだ。私はそういうふうにしてよいのだろうかと案じてもいた。だが、この本で分かった。よかったのだ、と。
信仰に一定の厚みのついてきた人には、十分分かりやすく読めることだろうと思う。しかし、これから説教を目指す人には、苦しい内容であるかもしれないと思う。体験があれば分かることも、ないときには難しい。だが、いくらかの体験をもった上で読むと、自分のスタンスが分かる。まさに文学である。
私にとり個人的に、大きな力を与える本であった。そうした読者が、増えていきますように、と祈りたい。