本

『文化史の中のイエス』

ホンとの本

『文化史の中のイエス』
J・ペリカン
小田垣雅也訳
新地書房
\5500+
1991.3.

 大著である。評判が良かったので、古書で探した。思ったよりも分厚くて大きくて、毎日ちままちと読み進み、一カ月くらいかけて読破した。
 キリスト教はまさにキリスト・イエスの教えとその霊とから成り立っているが、そのイエスをいま私たちが思い描くものが絶対普遍のものであるかどうかと顧みると、やはりそうではないのではないか、と気づく。その時々の文化や歴史の中で、イエスを思い描くイメージが違ってくるというのが当たり前ではないかと思うのだ。だとすれば、イエス・キリストはいつも変わることがない、とは言え、それを思い描く主体としての人間は、その国や時代、文化の相違の中にあるために、それぞれが別々のイメージをもっていたところで、当然のことであるはずだ。では人類は、その各時代、それぞれの環境の中で、どのようにイエスを思い描き、信仰し、伝えてきたのだろうか、という点を列挙するような試みは、なるほど私たちは意識しておきたかったテーマではないだろうかと思う。
 イエスの二千年を辿る。変わらないはずの神を、変わってきた歴史の中の人間が捉えた姿を辿る。歴史家としてのペリカン教授の研究が、ここに淡々と提示される。それは政治や社会に影響を与えてきた。歴史を作ってきたとも言える。それは人類史を理解するためにも大切な作業となるのである。
 だから、ユダヤの当時の解釈を以て満足することはない。ローマ帝国はどうであったか、中世ヨーロッパはどうか、近代になると、啓蒙主義から近代科学の時代にどのような解釈や理解がなされてきたのか、だから世界はどのようなパラダイムを形成してきたのか。
 そして、いま私たちはどこにいるのか。
 これを問うことなく、私たちの自己認識はないし、将来への展望もない。キリストというテーマによるものでありながら、これは必ずしもキリスト教史のためのものではないし、イエスへの関心だけに終わるものではない。およそ現代を生きる私たち、そしてこれから人類がどこへ向かって歩んで行こうとしているのかに関心を寄せる良心たちに対して、絶大なヒントを与える可能性のある研究となっているのである。つまりは、この本を知らないでは、もはや世界観というものはもてないのではないか、とさえ言えるように思えるのである。少なくとも、文明から離れて隠遁した生活だけで生涯を終えようとでも欲しない限りは。
 必ずしも、歴史の時代順に辿るというものでもない。人類が、キリストをどのように見ていたかという類型別にまとめられたところもある。だから、読む方としては大変読みやすい構成になっている。一読しただけで、ある点についての物の見方が養われるようになっており、非常に工夫された構成だと驚く。その点、著者のプレゼンテーションの力量も窺え、敬服する。これほど世界史と人類精神史をまとめるというのはどれほどの才覚であろうかと思うが、私たち読者も、そこから精一杯学ばなければならない。副題にある「世紀を通じての彼の位置」というものは、人類から見てのキリストという意味であるのだが、結局は、キリストの目から見て人間とは何であろうか、という問いかけにもなっているように私は個人的に受け止めている。極めて人間中心の意識からの考察ではあるにしても、最後には、人間とは何か、というところにまで行き着くようにして、本を閉じたいものだと感じた。




Takapan
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