本

『ルポ 母子避難』

ホンとの本

『ルポ 母子避難』
吉田千亜
岩波新書1591
\760+
2016.2.

 サブタイトルが「消されゆく原発事故被害者」とある。もちろん、東日本大震災における福島の原発事故がテーマであり、そこから派生した、女性の立場を中心としたルポである。
 涙と怒りなしには読めないようなレポートとなっている。
 こうした、声を出せない、出しにくいような人々のために、代わりに叫ぶジャーナリストの役割は大きい。いや、ルポライターと呼んだほうがよいだろうか。とにかく、そのために力となる人の存在はどうしても必要である。
 もしかすると、特定の場合であるかもしれない。だが、なされている政治的措置は誰に対しても同じであるし、ひとつの例がそれほど全体の現実から離れたものとなっているとは考えにくい。まさにここで例として取り上げられた何人の方々の場合、聞くだけで悲しくて仕方がないものばかりである。
 住むところを追われた。だが、それは政府の命令であるというのでなく、放射能に関する公的な声が信じられないこともあって、辛くてそこからいわば逃げ出したような人のためには、援助がなかったり、すぐに打ち切られたりする。それでいて、そのように逃げてきた人は自分で好きに来たのだろう、とその土地の人々に冷たくあしらわれ、さらに、援助を受けて羨ましいなどと、陰口のみならず面と向かって吐き捨てられたりする。冗談じゃない。何の心配も変化もなく安穏と暮らしている人に現金が転がり込んできているわけではない。いくら援助などと公的に言われたところで、雀の涙ほどのものでしかない。
 しかも、仕事のために東北やその周辺に残る夫とは別居することになり、生活の負担があるのみならば、家族としても崩壊していく可能性を否めない。いや、現にここには壊れた家庭の姿がレポートされており、そうして本当の母子家庭となったところには、貧困が待っており、それでなお援助もなくなる。
 政府が、事故発生当時についた嘘の故に、信じられないという人が、子どものためにと避難したとき、そこには冷たい仕打ちしか待ち受けていなかったのだ。
 こうした声は、報道に上ってこない。時折、テレビ取材があるにはあるが、深夜にようやく放送されるだけであり、視聴者が少ないうえ、バラエティものが並ぶ時間帯で、顧みられることもない。そもそも視聴者は、見ていて息苦しくなるような番組を、わざわざ選びはしないのだ。
 そういうわけで、放送しているよ、とか、新聞に載せているよ、とかいう報道側の免罪符は、当事者の救いにはあまり力になっていない現実がある。当事者も毎日が必死であるから、そういう声を出しに行く運動すら起こせない。集まって陳情に行くということすらできない例が、この本にも訴えられているが、まことにその通りなのだろうと思う。
 では、これを聞いた私たちに何ができるだろうか。声を出すことはできるかもしれない。よろしくないのは、自分は関係がない、という態度をとることである。つくづく思うのは、この原発が東京電力だということである。東京のマスコミを支える電力のための事故であるということを、もう少し感じとることはできないものだろうか。
 ひいては、東電でなくても、私たちもまた、多くの人の犠牲の上に、楽な生活をさせてもらっている。多くの人の「苦労」であることは当然である。が、余りに「犠牲」が多いように思えてならない。古代では奴隷制社会があり、奴隷の労働により市民が楽な毎日を過ごしていたわけだが、私たちのうちの余裕のある、発言権がありその機会もあるステイタスにある人々は、まさにその市民の立場であるのかもしれない。誰かが犠牲になるのは当たり前で、さしあたりそれは自分ではないのだという程度の認識の上で、便利が一番、と笑っているだけなのかもしれない。便利で利益を享受できる立場を楽しんでいるような毎日である中で、それを支えるためにとんでもない仕打ちを受けている人のことなど考慮の片隅にも入れない、また話を少しくらい聞いても見ないふりをしている、という社会構図を、まさに自分が形成しているのだということを、噛みしめていたい。
 できれば、具体的に何をどのように、という生活視線を送るこの著者のような方々の活動が支えられるように。祈るとともに、苦難の中の人々がいのちをつないでいけるようにと願う。ただそれしかできないことが、偽善めいていることを辛くも思いながら。




Takapan
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