本

『広岡浅子気高き生涯』

ホンとの本

『広岡浅子気高き生涯』
長尾剛
PHP文庫
\680+
2015.10.

 明治日本を動かした女性実業家、と言ってしまえばそれだけだが、当時の女性の立場と世間の見方を考えると、とんでもないことをしてしまった人である。NHKの朝の連続テレビ小説、いわゆる朝ドラで取り上げられなかったら、私も知ることがなかったかもしれない。だが、村岡花子さんもそうだが、キリスト者としてどえらい人である。
 朝ドラや大河ドラマに取り上げられると、出版界では一時的なブームが起こる。今回もその波の中に置かれた本であるかもしれないが、こういうときに、これまで地道に研究してきた人が脚光を浴びるのは悪くない。思い入れのある人が世間の耳目を惹くようになったとき、どうぞそれを知る人が紹介をして戴きたいと思う。
 そのとき、ただのブームや便乗といった雑音に消えていくものと、意義あるものとして残るものとがあるだろう。それは、後にならないと分からない。
 私はこのいち早くまとめられた紹介書には、心を感じた。著者の思う、広岡浅子のポリシーというものが貫かれていると思った。そこには、会話を含めて進められた、臨場感もある。もちろん、登場人物のせりふは想像上のものだ。著者もそれは断っている。だが、冷静な描写だけでなく、そうした劇的な演出は、その場の空気をよく伝える。それもまた著者の感じた世界であり脚色であることは重々承知の上でだが、読みやすくしてくれる。ただ、それがあまりに事実を逸脱したものであってはならないわけで、その点は、様々な史料をよく調べてあることは大前提である。
 女性として、当時の社会では考えられないようなことをやった人である。描くのは確かに面白いだろう。当人は、さほど考えられないようなことをしたとは思っていないだろう。あくまでも自分に正直にやりたいと願い、やり通すチャンスに恵まれたのであった。その意味では、神の計画の中にすっぽり置かれた逸材であったということになるだろう。そうした描き方もありがたい。
 しかし、本書の著者は、浅子の晩年の信仰にたいへん重きを置いているように見える。60歳を過ぎてようやく自分の中で意識された信仰というものは、それまでにも萌芽はあったし、傍から見ればそれ以前にも信じていたのではないかと思っても差し支えないようである。だが本人の中では違う。やはり、その選ばれた「時」が、その時なのである。ただ、晩年と言える時であった。病気とその手術を通して、自分の中に確立されたその信仰も、神の選びの中ですでに計画されていたことには違いないのだ。読者は、そんな視線で浅子の生涯を見つめ、応援していく。そんなふうに、引き込まれる。
 その浅子が、イエス・キリストをどんなふうに見ていたか。信仰に関して遺された文章もあるし、語った記録もある。だが、心の叫び、あるいは心の根本にあるもの、それは誰にも分からない。分からないけれども、それを避けていたら、その人の伝記は描けない。著者はここで冒険に出る。それが何であるか、はここでは伏せておこう。ネタバレに等しいからだ。著者はそれをわくわくと描いた上で、最後には、それも著者の想像に過ぎない、と正直に吐露している。つまり、そこは解釈であり、想像であるというのである。そもそも伝記というものは、そのようにしてしか描けないものだろう。明らかに本人が強く主張していることをただ並べたのでは、事実の羅列のようになりかねない。息吹を伝えるのは、伝記作家の仕事である。それがもしかすると、多少事実と外れることになっても、読者は割り切る寛容さが必要である。そのようにして、味わいたいものだ。
 さて、浅子の信仰はどうか。どうかそれをお楽しみに、本書を開いて、いっしょに旅して戴きたい。テレビをご覧の方には、いっそう親しみやすくなるはずである。もしそうでなくても、女性として、いや人間として真っ直ぐに歩んだ一人の人生に、多くのことを学ぶことができるであろう。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system