本

『青い空』

ホンとの本

『青い空』
海老沢泰久
文藝春秋
\3000
2004.6

 牧師に勧められてすぐに図書館に借りに行った。これを、日本の牧師は読まなければならない、と牧師は主張していました。
 長い小説である。700頁を数える。しかし、たちまち私は小説の世界に引き込まれていった。読みにくいかと思った時代小説も、軽快に読み進めていった。しかも、集中力をなくしてうつろに読み飛ばすようなことがなかった。
 キリシタンになった出羽小河原藩の中根村の百姓・武右衛門は、転ぶこととなったが、その子孫は代々、キリシタン類族令により、監視され続けることとなった。136年後の子孫藤右衛門は、キリシタンではないが、類族として不自由な生活を送っている。まだ16歳であった。この差別される境遇の藤右衛門が、庄屋のせがれを殺すこととなり、国を逃れ、江戸にたどり着く。助けた人に世話を受け、新たに宇源太として生きることになる。そこで、さらにいろいろな人に出会い、幕末を駆け抜けていく。百姓が虐げられる世の中に疑問をもち、神とは何かを問うような考えももっている。大政奉還後の新たな政府に期待を抱きながらも、裏切られ、新政府もまたキリシタンや類族への迫害を及ぼすことや、百姓の暮らしが楽にならないことに怒りを覚える。親しみ尊敬していた、神主の息子塚本彦弥を殺した男を探して、維新の士として働くが、結局政府に騙されるというあたりは、本当にはらはらしてしまう。
 なにしろ長編である。ストーリーを簡潔に示そうとするのは殆ど不可能である。ネタバレも気をつけなければならないので、展開はそれぞれの方がお読みになれば、と思う。
 物語は宇源太を主人公として進められていくが、ときおり筆者の視点が入る。また、筆者が資料で調べたことを、登場人物に長々と語らせるというテクニックもあり、日本における宗教思想が論じられている本である、と見ることもできる。
 直木賞受賞作家だが、この物語の構想は30年であるという。國學院大學の時期から学び心に蓄えていたことを軸に、ここに長編小説が築かれていった。
 日本の宗教思想は何か。筆者の息づかいが聞こえてくる。江戸時代、鎖国で徳川安泰のために、ついに仏教が人民を抑えつけるのに用いられた。神社すら、寺に吸収されてしまっていた。この本の前半は、その仏教批判に明け暮れていると言ってもよい。仏教の堕落さと駄目さ加減がくどくどと繰り返されていく。しかし、その幕府が倒れて新しい政府になっても、その寺が神社に変わっただけで、何も変わっていない、と宇源太は気づく。
 筆者の好む形の神道を、この宇源太も信じていくようになるふうに描かれているが、そこには祖先のキリシタン信仰のようなものも実は根底を貫いている。それは最終シーンによく描かれている。罪の赦しを木立の中の祠にて祈るのである。
 不浄の者は入るな、というふうに、寺も神社も、自分が政治の側に利用されるようになると、人々に高圧的になっていく。だが、不浄の者こそ、救われなければならないのではないか、と宇源太は疑う。これもまた、地味だが、筆者の強い息吹であるかと思う。
 どうして日本にキリスト教が根付かないのか。そういう問題にも、この小説は何らかの形で応えているかのように聞こえる。たしかに、日本で牧会する牧師は、これを読まないではいられないであろう。また、それだけの価値がある作品であった。
 それにしても、歴史上の人物が生き生きと描かれている小説でもあるのだが、勝海舟がとりわけ、宇源太との接触において最も詳しく描かれていて、これがまたカッコイイ。この小説だけで、勝のファンになってしまいそうな人もたくさん現れるのではないかと思われる。寺や神社やそれを利用する武士や政治家たちが批判的に描かれているのとは対照的に、勝はどこまでも、頭がよく腕の立つ参謀である。いや、実にカッコイイ。
 もう一人、やはり吉野信三郎であろうか。宇源太に剣を教えた浪人である。これがまたカッコイイ。「信三」というあたり、キリスト教と関係があるのかしら、などと考えるのはちょっと勘ぐりすぎであるが、いやはや、知的でありしかも剣の腕の立つ人物というのは、憧れの対象ではなかろうか。
 まとまらない書評だが、後は皆さんがそれぞれに味わって戴けたら、と思う。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system